2024-08-21

⚫︎お知らせ。「エクリ」にVECTIONのテキスト「壺の断面が歪むとき 権力分立と希望の幾何学♯2」が掲載されました。我々はあまりにもアウトプットが遅い。このテキストに書かれていることをVECTIONで議論していたのはコロナよりも前のことだった(クレジットにある「事例作成」の部分)。そして、テキスト(草稿)を書き始めた頃に、ちょうどコロナが騒ぎになっていた。さらに、このテキストに続く長大な「本論」がある(完成間近、であるはず…)。本論は、こんなもの一体誰が読むのだという感じの、面倒でややこしい形式的な議論ばかりひたすら続く。どうせ誰も読まないから、人間ではなくAIに読んでもらうために書いた、というのは、幾分か冗談混じりだが八割くらい本気だ(本論は、人間の制御を超えたAI同士の相互抑制のための原理の話でもある)。

ekrits.jp

⚫︎渋谷の映画美学校試写室で『ピアニストを待ちながら』(七里圭)。10月から公開される映画を一足先に試写で。とても面白かった。不条理にはじまるが、徐々に条理に収束していく。しかし、条理の方に傾きすぎると(説明しすぎると)、普通のホラーのようになってしまう。そうならないために、世界が多義化する、というか、フレームが多重化する。不条理に留まらず、条理に流れず、という展開と塩梅が刺激的だった。

(以下、ネタバレしています。そもそもネタバレを気にするような映画なのか、という話もあるが、「いったい何が始まったのだ ? 」という感じで始まり、どこに向かっていくのか見当もつかない展開をみせるので、こういう映画こそ、前情報なしに手探りで追っていくように観るのが良いようにも思うので、そのように観たい人は以下は読まない方がいいと思います。)

主人公(瞬介)は夜中の図書館で一人目覚める。そして、なぜかそこから出られない(そこはずっと夜のまま)。そこでまず女性(絵美)、次に男性(出目)という、二人の年長者と出会う。瞬介にとって二人は未知の人物だ。そして最後に、見知った友人のカップル(行人・貴織)と出会う。瞬介は最初に出会った絵美に「ここのカフェで友人の彼女が働いていたので以前はここによく来た」と言う。でもそれは学生時代で何年も前のことだ、と。そのとき言及されたカップルが、のちに出てくる行人と貴織だろう。瞬介と行人と貴織は、学生時代に一緒に演劇をやっていた。

不条理な夜のままの世界で図書館に閉じ込められる五人。外に出られるあてはない。閉じ込められている先輩である四人は、そこで、行人たちがかつて計画したが上演にまで至らなかった戯曲を上演しようと練習をしている(観客不在の上演)。不条理世界に新たに加わった瞬介は、その劇で、最後の場面で「締めの一言(のみ)」を言う、五人目の登場人物の役をあてがわれる。つまり、瞬介の登場によって初めて完全な形での上演が可能になった。しかし、瞬介の出演場面は最後だけなので、彼は出演者であると同時に、出演以外の場面では観客でもある。実際彼は、他の人物が芝居の稽古をする間、演者たちに照明を当てる役割を担う。彼は、照明を当てつつ、演者たちの芝居を「見る」。この照明のためのライトは、演者を撮影するカメラのようでもあり、演者たちを映し出しているプロジェクターのようでもある。

(瞬介の目覚めとともに映画は始まり、映画が始まったからこそ、他者の存在しない閉ざされた空間での「演劇の練習」の場面を「外部の我々(映画の観客)」が見ることができるのだから、瞬介はまさに登場人物と観客をつなげる媒介である。瞬介が「この世界」に迷い込まなければ、我々はこの「閉ざされた世界」と出会うすべはない。)

とはいえ、瞬介は単なる観客、単なる媒介ではなく、彼がピアノを弾くと演者たちが踊り出すので、劇の内容に介入する創作者の一人でもある(この踊りの場面は軽やかで楽しく、『はなればなれに』などを思い出すくらいだ。)。

閉ざされた者たちは、「ピアニストを待ちながら」という芝居(戯曲)を上演しようとしている。それは、「ピアニストがやってくれは祭りが始まる」という状況で、ピアニストを待ち続ける人々の物語だ。そしてそこに、実際にピアノを弾くことの出来る瞬介が現れるのだ。瞬介は「自分はピアニストではない(子供の頃ちょっと習っていただけ)」と言う。しかし彼は実際にピアノを弾くのだし、彼がピアノを弾けば演者たちは踊り出す(既に、ある程度は「祭り」だ)。たとえ「十分なピアニスト」ではなくても、彼が「ある程度はピアニスト」であることは間違いない。つまり彼は、十分ではないかもしれないとしても、何かしらの形で(キーを握る)「待ち望まれた人物」であろう。

もちろん、ピアニストを待ち望んでいるのは、フィクション内フィクションである戯曲の登場人物たちであって、フィクション内現実にあたる、行人や貴織や出目たちではない。だが、フィクション内現実の人物たちも「比喩としてのピアニスト」を待ち望んでいることは、フィクション内フィクションの人物たちと共通している(あるいは、フィクション内現実とフィクション内フィクションが意図的に混同されている)。

瞬介はだから、(フィクション内現実の上演において)「演者・創作者(内部)」であると同時に「観客(外部)」であり、「(閉ざされた)フィクション世界の登場人物たち」と「現実世界の映画の観客」を繋ぐ媒介項であり、「(オブジェクトレベルでは)ピアニストである」と同時に「(メタレベルでは)ピアニストではない」、という多義的な存在である。

⚫︎瞬介とはまた違った形で、他の人物たちと位相が異なるのが絵美である。彼女はなぜか、建物内部に閉じ込められたはずなのに中庭まで出ることができる(本当はもっと外まで出られるのではないか ? )。そしてなんと、彼女だけ外部と通信をしているようなのだ。

(映画を観ながら、人物は外に出られないのにカメラは外に出られるのか、と思うのだが、カメラもまた、中庭までしか出られていないのかもしれない。)

『ピアニストを待ちながら』の世界は、いわば『セリーヌとジュリーは舟でゆく』の「呪い」が反復するお屋敷の内部世界のようなもので、しかしそこには、侵入者であるセリーヌとジュリーが存在しない。だが、登場人物たちに見えていないだけで、セリーヌとジュリーに相当する人物は存在していて、絵美はその「侵入者」と通信しているのではないか、と考えることもできる。絵美と連絡しあっている侵入者たちが、行人を呪いの世界から救出した(成仏させた ? )のではないかという仮説を立ててみることもできる。もちろんこれは、考え得る(条理的)仮説の一つにすぎない。この映画の世界は終盤に向けて多重フレーム化している。

⚫︎映画の終盤で、行人はすでに死んでいるという事実が、少なくとも瞬介と貴織の二人の間で共有(というか、確認)される。そこで貴織は、「この世界」にみんなを閉じ込めているのは、上演を果たせないまま死んだ行人ではないかという解釈を述べる。みんなを閉じ込めて、果たせなかった上演を果たそうとしている、と。この解釈もまた、この映画であり得る(条理)フレームの一つだ(貴織は「赤い貴織」から「青い貴織」に変化し、再び「赤い貴織」に戻り、この見解を述べるのは「青い貴織」なのだが、もしかすると貴織は二人いるのかもしれない)。ただし、「閉ざされた世界」から行人が忽然と消えてしまった後も、人々は(というか貴織は)閉ざされたままで外に出られない。

ここでまた驚くべきことが示される。世界から行人が消えてしまった途端に、瞬介と貴織が急速に距離を縮めて、いわば「いちゃいちゃする」ような感じになる。ここで新たに浮上するもう一つのフレームは、瞬介と貴織は、行人に内緒で実は「仲良く」していたのではないかということだ。学生時代の瞬介がこの図書館のカフェに足繁く通っていたのは「友人の彼女」としての貴織に会うためではなく、「友人に内緒で」貴織に会いに来ていたのではないか。そしてこの「二人のイチャイチャ」を、絵美はしっかり見ているのだ。この世界の基底には三角関係があり、絵美はそれを初めから明確に知っていたのではないか、と。

だとすれば、この「閉ざされた世界」は、死者である行人と魔女である絵美が共同して、瞬介を誘い込んだ上で瞬介と貴織の二人を閉じ込めるための罠として作られたのではないか、と考えることもできる。この世界は、行人の「役」と瞬介の「役」とを入れ替えるための装置だったのではないか。そう思って振り返れば、照明を当てつつ、行人と貴織の芝居を瞬介が見ているカットに、行人と貴織だけでなく(見ているはずの)瞬介自身が映り込んでいたり、あるいは、行人と貴織の二人が演じているはずの場面で、時折、行人と瞬介が入れ替わって、瞬介と貴織の二人が演じていたりするカットもあった。瞬介が「待ち望まれた人」であったとしても、決して祝福されて待ち望まれていたわけではなく、行人との位置の入れ替えのために待ち望まれていたのかもしれないのだ。

事実、行人が世界から消えることで、上演で行人が演じるはずだった役が、瞬介にあてがわれることになる。それにより瞬介は、待ち望まれたピアニストでもあり、観客不在の劇における(照明を当てる)特権的な観客であるという位置を奪われ、劇を閉じるための特権的なセリフを言う権利も絵美に奪われて、つまり超越的な役回りの一切を奪われて、この閉ざされた世界=戯曲の「内部構造の一部」として完全に取り込まれてしまうのだ。

⚫︎戯曲のキメセリフ、「ピアニストは今日は来ない、明日は来るかもしれないが…」。ここで言われる「祭り」を起こす「待たれているピアニスト」とは「希望」の比喩かもしれない。しかし、それは「死」のことだと解釈することもできる。出目に向かって瞬介はそう言う。多義的であるということは、曖昧なのではなく、二つのフレームが同じ強さで重なっているということだ。だから多義的というより多重的というべきかもしれない。このセリフはこの作品をとても強く多重化する。この映画は、「不条理」的な曖昧さで始まり、多重フレーム的な「多重条理」の世界へと進んでいく。

⚫︎瞬介が多重媒介者であると同時に罠の獲物であるとすれば、行人は上演を企てる作者であると同時に呪いをかける死者であり、貴織は、上演の演者であると同時に秘密を隠し持つ(疑惑をかけられる)者であり、出目が若者たちの物語における文脈的部外者としての先行世代で、絵美はフィクション世界全体の外にいる魔女である。登場人物たちもまた、全員が同一平面ではなくそれぞれ異なる平面に存在し、異なるフレームを形成している。

⚫︎追記。面白いティザー映像。

特報『ピアニストを待ちながら』劇場版【公式】(youtube)

https://www.youtube.com/watch?v=7EzekeAGLUw