2024-08-22

⚫︎「新宿野戦病院」、8話。回を追うごとに、クドカンすげえ、脂が乗り切ってんなあという驚嘆、感嘆と、大衆作家として「いい話」の方に落としすぎているのではないかという疑問と抵抗の感情が、ぼくの中で激しくバチバチにぶつかりあうようになってきていて、グヌヌヌヌヌヌッとなりながら観ている。

(せっかくストーカーが身を切るようにして自ら関係を断とうと決心したのに、最後に一緒にチェキを撮ろうなんて言うのはダメではないかと思った。それは(未練を残す)悪魔の囁きだからどちらのためにもならない。「あなたのおかげでどれだけ怖い思いをしたかわかりますか」と塩対応するくらいの対話の成立がお互いのためではないか。)

「犯人」のミスリード的取り違えという手法は、作劇としては割とよくある使い古された手でもあって、主題のシリアスさに対して、作劇構造が軽すぎ(簡単すぎ)ではないだろうかと思ってしまった。絶対悪を(外から恣意的に)持ってくることで相対悪を救って、「いい話」に持っていくというようなことをやってもいいものだろうかという疑問。

(いったん、ストーカーの男をすごく悪い奴だと思わせておいて、実はそうではなかったということで「いい話」感が出るのだが、その対比的効果のために「さらに悪い奴(爆破犯)」を出してくる。この「さらに悪い奴」の出し方が唐突でご都合主義的にみえる。作劇構造の都合のためだけに薄っぺらの極悪人が要請されているようにみえてしまう。この「さらに悪い奴」にも後日譚が用意されているというなら話は別だが。というか、今までの展開からみてそうである可能性は高いと思うし、そうであってほしいと強く思う。橋本愛の怒りを込めたナレーションだけで終わり、は、ないのではないか。)

(ストーカーの男が犯人ではなかったということで、彼を逮捕しなかった濱田岳も救われる。しかしこれも、たまたまそうじゃなかったということで、濱田の「判断」にかんする躊躇・迷い・悩みが消える(解決する)わけではない。ひとまずは良かったわけだけど、ここもまた「いい話」にして流してはいけないシリアスなところだと思う。)

とはいえ、どんなにシリアスで後味の苦い展開でも、容赦なくギャグをぶっ込んでくるのは流石だと思った。ここで笑いは、苦さを救う清涼剤としてあるというよりも、シリアスな話が「いい話」の方に流れていってしまうのを抑制し、苦いものを苦いままに押し留めるための批評(毒)のような作用がある、という傾向を持つように思う。