⚫︎『不適切にもほどがある ! 』、第八話。とにかくコメディとしての密度がすごい。それとと同時に、今回はシリアスな苦い回でもある。
(前回は、自己言及的自虐を通じてやんわりと現代の視聴者へ疑問を呈する感じだったが、今回は「わかりやすい悪役」まで持ち出した、現代の視聴者への強めの批判になっている。この「わかりやすい悪役」のあり方に引っかかる人はいるかもしれないが。)
自分の死んだ後の世界で、孫の世代にあたる若者たちのために闘う阿部サダヲが、「世間」に対する敗北を認識する、というか、若者たちが「(目に見えず、掴みどころのない)世間」を引き受けて生きざるを得ないのだという「未来の現実」を苦く認識する。(限られた「自分たちの未来」のために)娘と一緒に自分の世界に帰るのではなく、驚くべきことに「禁煙」までして未来に順応し、自分の死後の世界を生きる若者たちのために奮闘するが、己の力の及ばなさを自覚するしかない。ラスト近くの、復帰したアナウンサーが映るテレビ画面を見ている阿部サダヲの「苦い表情」が印象に残る。
(亡くなったおじいちゃんが、自分が死んだ後の「この世界」で子孫のために働きかけるというのは、ちょっと柳田國男の『先祖の話』を思わせる。)
過去に帰った河合優美は、「未来(2024年)」をとてもポジティブなものと感じて、自分の時代に帰っていく。彼女は、未来の良い側面だけを経験している。それに対し、父の阿部サダヲにとって未来は良い世界ではない。それは決して「昭和のオヤジ」の常識や価値観と食い違っているからではない(実際に阿部サダヲは「未来の常識」を驚くべきスピードと柔軟さで身につけ、禁煙してもいるし、不倫を理由にアナウンサーを干しているテレビ局に対して「権利濫用による不当な配置転換と過小要求でパラハラに当たるのではないか」と主張するくらいに現代的な論理武装さえ身につけている)。そうではなく、未来に生きる若者たちが少しも幸福そうに見えないという理由から、良い世界ではないと思っている。そして彼は、未来=現代がこうであることの「過去」から来た者の責任において(死後の世界に対する、死者としての責任において)、良くない未来と闘う。これまで彼は、テレビ局のカウンセラーとして、未来の若者たちのために、(限定や保留が必要だとしても)一定の成果は出していると言えるだろう。しかしそれは、彼がまだ十分には「未来」の世界を知らないことによるビギナーズラックのようなものだったかもしれない。だが、今回ははっきりと自分の敗北と無力を、「昭和のオヤジ」の限界を、認めざるを得ない結果になる。
(勿論、一方的に「令和の地獄」のみを描いているのではない。もう一方に、ようやく学校に行こうという気になった不登校の佐高くんを受け入れる教師やクラス側の態度として「昭和の地獄」もしっかり描かれている。坂元愛登も、彼なりのやり方で「昭和の世界」で闘っているが、彼もまた今回は「昭和の常識」に敗れたことになる。)
(吉田羊が、キッチンのテーブルでスナップエンドウの筋を取る作業をしながら、同じテーブルで勉強している河合優美と会話する。この作業は、昔のドラマには「お母さんの家事労働」の紋切り型のようにしてよく出てきた気がするが、最近のドラマではあまり見ない。吉田羊が、一方でフェミニストでありつつ、他方で「昭和の専業主婦の紋切り型」にすんなり馴染んでいるように見えるという矛盾を含んだありようを、皮肉ととるのか、ユーモアととるのかの違いは大きい。)