⚫︎『不適切にもほどがある ! 』、第五回。今回、序盤中盤は、あまり攻めていない、ネタ優先で緩めのほっこり回なのだが、ドラマでもアニメでも、このようなほっこり回は、その直後にほぼ必ず、対比的に、深刻で重大な出来事が起こるのがテンプレ展開なので、ほっこり場面を観ているといつも、この後にとても悲しい出来事が起こるのではないかと気が気ではなく、気持ちが暗くなってしてしまうのが常なのだが、案の定、そうなった。こういう、ほっこりからドーンと重くなって落とすというテンプレ展開はもうやめようよ、と思う。
(「ほっこり」から「重めのシリアス」へというテンプレ展開をどこまでも避け続けるのが「日常系」ということだろう。)
⚫︎とはいえ、これでかなり話の見え方が変わった。1986年と2024年の間に、断絶の年というか、断層としての1995年が挟まれる(95年は地下鉄サリン事件の年でもある)。1986年と2024年は地続きではなく、88歳の阿部サダヲは存在しない。吉田羊は1986年の自分に会ってしみじみするが(「結局、変わらないのよねえ、社会も、人も」みたいな「お前がそれを言ったらダメだろう」というような、余裕げなことを言えるが)、阿部サダヲは2024年の自分には会えない。2024年の人々にとって阿部サダヲは、過去から来た人というより、まさに幽霊であり、また、阿部サダヲにとって2024年は、文字通りの「死後の世界」ということになる。タイムマシンバスは、時を越えるというより三途の川を越える。
(磯村勇斗は、父と息子の一人二役で、時間の連続性・反復性を表しているが、河合優実=母と仲里依紗=娘は別人によって演じられ、こちらでは断絶が表されている。)
(阿部サダヲは、娘が「ムッチ先輩」と結婚しなかったことに胸を撫で下ろすが、しかし、ムッチ先輩と結婚していたら、2024年にもまだ生きていたかもしれない。)
古田新太は、義父(阿部サダヲ)の死によって宙ぶらりんになって、義父に届けられなかった「仕立てたスーツ」を、29年後に現れた義父の幽霊に届ける(29年越しで宛先に届く)。古田新太にとっては、長年の「心残り」が果たされたことになる。ただ、採寸した阿部サダヲより、スーツを受け取って着ている阿部サダヲの方が若くて、阿部サダヲ視点から見ると時間が逆流していて未来を先取りしている。このスーツは、阿部サダヲにとっては、この先にある「自分と娘の死」の象徴でもある(未来から届いた死の招待状だ)。1995年のスーツが1986年の自分に届くという事が、1995年以降の自分の不在を証す「死の物的証拠」となる。タイムマシンを作った井上博士は、先生の死を知らなかったのだろうか。知っていて、1986年に帰ろうとしたということもありえる。
自分と娘の人生のリミットを知ってしまった阿部サダヲは、運命を受け入れるのか、それとも変えようとするのか。というか、そもそも運命を変えることは可能なのか(変えようとするとビリビリッってなる)。当然、そこが大きな問題となるはずだし、もうコンプラがどうとか、そういうのはどうでも良くなってしまうくらい重い主題が出てきた。2024年が阿部サダヲにとって「死後の世界」だとすると、彼は単に「昭和の遅れた親父」ではなく、完全に「世界の外」の人だということになる。「秋日子かく語りき」とか『東京上空いらっしゃいませ』みたいな感じの、自分が、自分の死後の世界に現れたとして何をするのか(自分の死後の世界に介入するというのはどういうことなのか)、という話に近づいている。
昭和の親父も昭和の娘も既に死んでいる。これは、自分の死後にも世界はあり続けるという話だ。我々は、阿部サダヲを通して、自分の死後にもあり続けている世界を見ている。そう考えると、2024年の世界の見え方が変わってくる。
⚫︎1986年を生きている阿部サダヲは、2024年が「こういう世界」になっていることを、当然知らない。しかし、2024年に生きる人々は、少なくとも知識としては、1986年がどのような時代だったのかを知っている。この非対称性は、二つの世界を直接ぶつけ合わせるこのドラマでは、これまではそれほど問題になっていなかった。しかし、二つの世界の間にある「1995年の死」という断層が明らかになることで、この非対称性が露わになった、とも言える。