2024/03/09

⚫︎『不適切にもほどがある ! 』、七話。今回は、現代のドラマ視聴者ディスみたいになっている。ディスというか、「たまたま六話とか七話だけ観たとして、それが好きだったら、ぼくにとってそれは好きなドラマです」と言う岡田将生の「いい奴っぷり(好感度)」によって(つまり、河合優美が「今、ここ」にいる経緯を問うことなく、それを謎として保留したまま、現状そのものを楽しみ、それ以上追求しないという態度によって)、伏線回収とか、細かい考察とかばかりしている現代視聴者の在り方(そして、そのような視聴者を前提として作られるドラマのあり方)に疑問を呈しているという感じ。それってあまりにも「狭い」ものの見方ではないか、と。そもそも、「終わり」が決まっていて、そこから逆算されるような物語ばかりが高く評価されるのはおかしいということが、「終わりが決まっている」阿部サダヲという存在を通して強く示されている。とはいえ、この『不適切にもほどがある !』というドラマがそもそも、最後にどこに落ち着くのか、どんなどんでん返しがあって、どのように伏線が回収されるのかとということにかんする「意外なオチ」を強く期待させるような作りになっている上に、伏線回収を求めるような現代視聴者の「反応」をあらかじめ織り込んでいるような作りであもあるので、一周回って、自虐的自己言及にもなっているという、複雑な在り方をしている。この絶妙なアイロニーの感覚が、このドラマの基調としてあるように思う。

(ぼくは、クドカンのドラマでは『マンハッタン・ラブストーリー』が好きなのだが、それにちょっと近い展開になってきているようにも思う。)

⚫︎ムッチ先輩の眉毛、これは『フリクリ』なのか。このドラマのムッチ先輩やエモケン先生が素晴らしいのは、人物造形としては明らかに「紋切り型」そのまんまのキャラでありつつ、紋切り型を越えた、あまりに自由な動き方をするところだ。登場人物たちはみんな、ムッチ先輩が「中卒のヤンキー」だからといって舐めている。しかしそんな中、ムッチ先輩は誰にも予想できないような飛び抜けた動き方をする。前回は、阿部サダヲと吉田羊がしんみりと「余命」についての秘密を語り合っている場にちゃっかり居合わせてしまうのだし、今回も、適当に誤魔化せるだろうとたかをくくってタイムマシンの仕組みを教えると、ちゃんと未来にいけてしまう。みんな、ムッチ先輩は馬鹿だから簡単に騙せると思っているが、蛙化現象にかんしても、タイムマシンにかんしても、誤魔化せると思ってもまったく誤魔化されていないばかりか、一回り上の行動を見せる。

エモケン先生にしても、時代遅れになった過去の業績によって今なお傲慢であるという、残念なウラシマタロウ的ベテランの紋切り型のように登場しつつ(それだけだったら単純な老害ディスにしかならない)、実は阿部サダヲとも気の合う気のいいおっちゃんであり、エゴサの結果でわかりやすく心が折れてしまうような弱いメンタルであり、傲慢なようでいて実は裏ですごく努力していたり(傲慢なように見せて実は久々の新作にすごく気合を入れている)、など、紋切り型からどんどんズレていく、このズレる動きそのものがギャグとなっている。このドラマでは単純な善/悪のようなものは存在せず、あらゆるものが様々な側面を持つということが、複雑に屈曲したアイロニーによって示されている。

⚫︎ちょっと前までは、素人感、手作り感に溢れるプールイYouTubeチャンネルに出ていたファーストサマーウイカが、今では、地上波の、こんな立派なドラマに出ているのだなあと、しみじみする。

⚫︎二十歳前後の時に『赤ちゃん教育』に出会って以来、というか、小学生の時に『マカロニほうれん荘』に出会って以来というべきかもしれないが、超絶的なコメディに目がないのだが、今のクドカンはコメディライターとして冴えまくっているなあと思う。