2023/03/30

●横浜のSTスポットで、スペースノットブランク『本人たち』を観た。凡庸な比喩だが、DTMで作ったすごく複雑なリズムを、人間のドラマーが手で再現しているみたいな感じ。

(関係ないが、ぼくはSTスポットのあるSTビルのすぐ近くの予備校で三年間の浪人生活を過ごし、一年目にはまだ建設途中だったSTビルが、二年目か三年目には完成していて、完成後にはSTビルの敷地内を突っ切るのが横浜駅から予備校までの通い道となった。今でもまだ、STビルに行くとわずかに心に蠢くものがある。)

●演劇(と言い切っていいのかわからないが)が高度に濃縮されたものになり、ただ「観劇する」だけではその輪郭を充分に受け取ることが難しくなってきたとき、事前、そして事後に戯曲を読むとか、映像の記録によって記憶や経験を参照するということまで含めて「観劇」というものを考えてもいいのではないかと、『脱獄計画(仮)』でも思ったし、この『本人たち』でも思った。

もちろん、まずは、受け取りきれないほどみっしりと重層化された観劇時の経験が、一義的にはある。それ自体が圧倒的であったり、受け止めきれなかったとしても、受容から溢れるほどの何かがあったということは確かだという経験がある。それこそが重要で、のちに戯曲で確認したりすると、その経験が「書かれた言葉を読む」ことの強さに引っ張られて歪んでしまいかねない。ただ、その経験は時が経つとだんだん薄れていってしまう。

どんなに強烈な夢を見たとしても、目が覚めてからしばらく経つとその感じは消えてしまう。それをなんとか書き留めようとする。しかし、言葉で書きつけられた「それ」は、今見た夢の生々しさからはかなり遠いし、なんならその感覚を裏切ってさえいるように思われる。しかし、文を夢の感触に近づけようと努力しているうちに「夢の感触」そのものが急速に干からびていく。だから不十分であることは承知で、忘れてしまう前に何とか書きつけてしまおうと先を急ぐ。そのように書き留められた「夢」は、元々みた夢とは程遠いものかもしれない。しかしそこには夢の痕跡の、ごく一部であっても、何かが残っているかもしれない。

そのようにして残された「夢の残飯」をもとにして、再び元の夢に近づくほどに濃密なものを作るにはどうすればよいのか。それは「夢の再現」ではなく、「夢(と同等のもの)の再創造」となるしかない。夢の再創造に必要なのは、夢の記憶であるよりも、再創作のために必要な資源や技術だろう。そのように考えるときに、「夢みること」が、夢をみるという経験そのものであると同時に、夢を再創造する行為であり、その技術でもあることになる。

「観劇する」ということもまた、同様に、観劇の経験そのものであると同時に、観劇の経験を再創造するという行為であり、その技術でもあると考えることができる。そのとき、戯曲や映像は、その再創造のための重要な資源となるだろう。

●そもそも、『本人たち』では、今、ここ、という時空のありようが疑われているように思った。目の前で観客(わたしたち)に語りかけているあの男は、事前に書かれたテキストを演じているに過ぎない(とはいえ、「受付で製本された戯曲を売っています、中綴じではなく無線綴じです」というくだりは売っていた戯曲には書かれていなかった)。彼は、誰も観客のいないところで同じ言葉を繰り返し発して練習していたはずだ。おそらく、スタンドアップコメディの形態を摸していると思われる第一部の語りは、一見、観客に向けて語りかけ、観客の反応に応じているように見えるが、実は観客の反応とは一切関係なく自動的に進行しているのではないか(ジャンケンによる分岐のところでだけ別で、だがここでもあくまで機械的に結果に反応する)。それを強く感じさせるのが男の口調で、白々しく明朗で、他者の反応から自律して閉じた一定の調子を正確に維持しているという感じだ。観客を積極的に巻き込もうとしているかのように、インタラクディブであるかのように書かれた(「書かれた」のではないそうだが)テキストと、(どんなに滑っても心が折れない芸人であるかのように)観客に無関心であるかのような、無機的な朗らかさの感触で演じられる演技。一方、第二部では、観客とは切り離された世界が舞台上で成立しているように見えて、俳優が時々、ちらっと観客の方を窺うような身振りを見せ、そのことによって観客が自らの存在(自分達がいる客席の広がり)を意識させられる。もちろんここでも、俳優は、観客の様子を窺っているのではなく、「(あらかじめ決められた)観客の様子を窺う身振りを演じている」のだが、観客に対してそれは実際に「様子を窺っている」かのような効果を持つ。あるいは、観客の側としてはインタラクションを最も強く感じさせる「念力暗転」ですら、実は、観客が実際に目を瞑ろうが瞑るまいが、劇の進行には何の影響もない。

おそらく、俳優の側は、あらかじめ作られたものをできるだけ正確に再現しようとしていると思われ、インタラクティブに演じているわけではないのに、観客の側が、インタラクションが生じているかのように反応して(させられて)しまう。第一部で顕著だと思われるが、通常のスタンドアップコメディでは、芸人は観客の空気を鋭敏に読んで、間を作ったりアドリブを入れたりするが(本当にインタラクティブだが)、ここでは観客の空気を一切読まないで、俳優はあらかじめ定められたリズムと調子を(リズムと調子の変化の展開を)正確に守ろうとしている(と思われる)ので、観客の空気との間にズレができて、なんとも言えない、しらーっとした空気が流れる。この効果は、ぼくにはストレスのように蓄積して、序盤は楽しく観ていたのだが、第一部の終盤では首が凝って仕方がなかった。この「首の凝り」こそが、ぼくにとっての、作品(偽のインタラクション)によって与えられた経験の身体的表現(効果)なのだと思われる。

●第一部は、まず観客への直接的な語りかけ(《お好きな席にお座りください》など)から始まって、「言葉」に関する言及の後、今いるこの場所(STスポット)についての語り(説明のための言葉)となる。この部分では、今、ここにいる俳優が、今いる「ここ」について語っているかのようで、語りの内容と時空とがシンクロしている。ただ、このシンクロは偽のシンクロであり、本番でシンクロするように事前に作られたテキストにあるセリフを喋っている。そしてこのシンクロが偽のシンクロであることを明かすように、この場所(STスポット)の「偽の起源」が語られる。その後、「今、ここ」の外からの語りのようにして、モニターからの声の介入で、「今日」「ここ」が、過去のあるとき、おそらくこの作品のためのミーティングに出かける前の部屋、そして途中の電車の中へと移行していく。「ここ」にいる観客への直接的呼びかけ、「この場所」のリテラルな説明から、ある程度フィクション的な時空が立ち上がるかと思うと、次には、スペースノットブランクが作ってきた「共有するビヘイビア」というシリーズについての説明(自己紹介)のような語りになり、再び、内容と時空の(偽の)一致が現れる。

戯曲は、俳優の喋りを録音したものを、自動書き起こしソフトで文字化して(誤変換もそのままで)、それを編集して作られているという(販売された戯曲を読むと、誤変換はかなりひどい)。それはそもそも、連続した同一の時空に根拠を持つものではなく、時間的にも空間的にもあちこちで語られた「声」の寄せ集めであるから(さらに間にAIが介在しているから)、内容的に大雑把に見れば、内容と時空が一致しているようにも解釈できる場面でも、発語される言葉を一語一語追っていくというレベル(また、俳優の動きや仕草、調子の変化などを丁寧に追っていくというレベル)では、飛躍や欠落や非連続が多く仕込まれ、滑らかに「今、ここ」という時空には収まらない。俳優が「わたし」と言うときも、俳優が自分自身を指しているとも限らないし、フィクション上の同一人物を指しているとも限らない。

つまり、マクロのレベルでの時空との一致、不一致とは別に、ミクロのレベルでは常に時空の同一性からの細かな滑落が、一歩を足を出すごとに生じているかのようだ。

●一部において、俳優と観客との間に起こっていた偽のインタラクションが、二部においては二人の俳優の間に起こっているように思われた。ただ、そのありようは異なる。まず単純に、二人の俳優が同時に噛み合わない長セリフをバーっと喋っていて、最後にそれが同期するようにスッと着地する様が、それだけでとんでもなく気持ちよかった。この、同時並行長セリフを、断片的以外に聞き取るのはほぼ不可能だと思うが、戯曲を読んでみると、ほとんど意味不明なことを言っているのと同時に、(意味とは異なるレベルで)なんとなく呼応しているようにも感じられる言葉の配置になっている。

実は、互いに無関係に喋っているように見える同時並行長セリフのときよりも、あたかも普通に対話が成立しているかのようなリズムで話しているときの方が、内容の無関係性はより大きくなっているように思う。

同時並行長セリフでは、その収束点で同期が起きることによって、対話風のやり取りにおいては、対話しているかのようなリズムになっていることによって、対話内容までインタラクションが成立しているかのように感じられてしまう。あるいはここでは、内容的なインタラクションではなく、リズム的なインタラクションが生じていると言えるのかもしれない。だから第二部では、第一部にあったような空気の齟齬や、それによって蓄積されるストレスがなく、音楽的な心地よさが生じている。

しかし、一貫して通じてなかった二人の話の内容が、終盤に突然通じるようになる(途中で、テレビのADをやっていたという対話でちらっと噛み合うところがあるが)。《歩きたくなったら歩いてもらって》というセリフに続いて、まさに舞台上を二人でゆっくりと歩きながらする会話が、嘘のように意味的に噛み合い始める。まず一人が地元について話し(モニターの第三者の語りを挟んで)、次に(おそらく)二人で美術館に向かいながら、自分たちの現状について語り合う。だがそのシンクロも一時的なもので、すぐに壊れて散っていく。

(戯曲に「町今」「待ち込ん」と誤変換のまま書かれているものが、上演中に耳で「街コン」と聞いたものだとなかなか気づけなかった。「まち墾」が出てきてようやく気づいた。)

●第二部では、「岸田國士で卒論を書いた」という同じ話が、N1、N2という二人の別の人物から口に出される。まずN1から、続いてN2から。だが、N2のセリフはとても微妙で、この作品における因果律の危うさをよく表現しているように思われた(以下、戯曲から引用・誤変換による誤字はそのまま)。

《(…)大学生のときに よく友達と何か同じように住んでいる友達がいて そのこと卒業論文 卒論それに14時間営業のファミレスに ドリンクバーと時々ポテト頼んでやってましたね 卒論って書いたことないからありますけど 大変そうですね 日本文学の専攻 一緒の選考なんですけど、捨てて 岸田國士の一つの戯曲をもとに書くみたいにしてたんです そういう人たちの論文とか全部読んでみたいな すごい量のものを読んでやっていたから 本当に大変だと思います 大変そうでした 寮に住んでたんですね 実は 「私」も寮に住んでいるそうなんです(…)》

この文を通して読むと、「岸田國士で卒論を書いた」のは友達で、しかもこのセリフの(引用外の)冒頭で《その娘も実家は岡山なんですけど》と書かれている(N1は地元として岡山の話をしている)ので、友人はN1で間違いないようにも思える。しかしこの連なりは一つの統一された文章ではなく、バラバラに出力された言葉が、事後的にこのように配置されているだけだろう。

例えば、《そのこ(その娘)と卒業論文 卒論それに14時間(24時間)営業のファミレスに ドリンクバーと時々ポテト頼んでやってましたね》の部分だけ取り出せば、友達と二人でファミレスで卒論を書いていたように読める。また、《捨てて 岸田國士の一つの戯曲をもとに書くみたいにしてたんです》という発言は、《そういう人たちの論文とか全部読んでみたいな すごい量のものを読んでやっていたから》という友人と自分を対比しているように読める。しかしそれらの意味は、《卒論って書いたことないからありますけど》によって否定される。しかしこの部分の否定が、この言葉の連なりのどの範囲にまで波及するのかは定かではない。あるいは、《よく友達と何か同じように住んでいる友達がいて》の部分に注目して、「友達」がもう一人存在し、論文を書いたのはその二人の友達で、自分は《卒論って書いたことないからありますけど》なのかもしれない。また、引用部分最後の《寮に住んでたんですね 実は 「私」も寮に住んでいるそうなんです》をみると、これを語っている「私」と、語られている《卒論って書いたことない》人との関係=同一性が不安定になるように感じられる。

つまり、その表現によって表される行為の主体の位置(同一性)は、俳優の身体によって必ずしも保証されないという事態が起きているようだ。そしてそれは、(たとえばチェルフィッチュのように)「役」というまとまったレベルで憑依する(移動する)のではなく、一つ一つの言葉の断片ごとに、主体の在処が保証されていない。一連の統合された流れの中に配置されているようにみえる、《卒論って書いたことないからありますけど》《捨てて 岸田國士の一つの戯曲をもとに書くみたいにしてたんです》《そういう人たちの論文とか全部読んでみたいな すごい量のものを読んでやっていたから》の三つが、全て異なる主体に着地するかもしれない。しかしそのすべてを「わたし」という主語が統合できるので、それは一人の俳優によって演じられることもできる。

●第一部から通して、意味ありげな、あるいは深みのある話をすることを(数少ない例外を除いて)避けて、表面的な、あるいは紋切り型的な事柄をのらりくらり語り続けているこの上演で、一つ、とても強く印象に残るエピソードが、一部と二部とに共有される「年老いた自分に会った」というエピソードだろう。

第一部では、大きな駅で会った男が、自分に似ていなくても年老いた自分だとすぐ分かり、どちらともなく話をしたが、距離があって差し障りのない話しかできなかったと語られ、第二部では、おばあちゃんにそっくりな人に出会って後をつけたら、その人がこちらを窺ってきたから、会釈して通り過ぎようと思ったら、その瞬間その人は「私」なのだと直感した、と語られる。

一部の語りでは、年老いた自分との出会いの衝撃が緩和されており、それは既に懐柔的に加工されている。わたしは、概知の存在として予め出会っていた対象との出会いを再現しているが故に、似ていなくてもすぐに「自分」だとわかるが、そうである限り、当たり障りのない話をするしかない。第二部では、おばあちゃんとの類似を介して引き寄せられた「自分」に、立ち去り際に衝撃的に出会う。

この作品(の特に一部)には、何かを覆い隠す膜のようなものという、ゆるい主題的連鎖があり、それは、顔を覆うマスク、視線を覆う瞼(念力暗転)、そして、背後の空間を隠すSTスポットの白い壁として展開される。マスクをとる、とらないは、ジャンケンによってランダムに決められるが、それはどちらであっても想定内の出来事であり、マスクをとることが何か特別な侵犯になることはない(と思う、ぼくが観たときはとらなかった)。念力暗転もまた、観客が誰一人として目を閉じることがなかったとしても劇の進行に支障はない。STスポットの壁の背後の空間の説明も、この作品の劇空間に影響を与えることがない。隠されたものの開示は予め演じられものの再現であろう。

(追記。この「覆い隠す膜」の主題系は、演劇において重要な「見えないものを想像する=見立て」を含意するとも言えるかもしれないが。)

では、「もう一人の自分」との想定外の出会いとは、どのような経験としてあるのだろうか。それは、偽のインタラクションと、真のインタラクションとは、結局のところは区別がつかないという感触にあるのではないか。観客は、ここで仕掛けられたインタラクティブな要素が偽のものであることを、知的には理解することができる。しかし、たとえば第一部における「微妙な空気のズレ」がストレスとして堆積するのは、そこにある相互作用には「偽のもの」だとは思い切れないだけの精度がそのパフォーマンスにあり、身体全体としては何かしらの相互性を感じてしまっているからこそ、細かなズレがストレスとして溜まるのだと思われる。また、第二部で、それまで噛み合いそうで噛み合わなかった対話が、嘘のようにスッと噛み合う瞬間、頭では、単にそのように仕組まれているからそうなのだと分かっていても、あたかも奇跡的に「噛み合い」が生じたかのように感じてしまうだけの精度がパフォーマンスとテキストの展開にあるからこそ、そこに新鮮な驚きが生じてしまう。

予め偽物だと分かっているものの中から、真実としか思えない感触が不意に湧き上がってくるときに、ありえないはずの時空の背後から、まったく未知の「自分」がぬっと迫り上がってきて、思いもかけずにそれと出会ってしまうのではないか。