●「note」には、「マガジン」という、記事を編集してまとめる機能があって、それを使って「works 古谷利裕」というくくりをつくりました。これをみると2000年以降くらいからの、ぼくの絵画作品の流れが大雑把に分かる感じになっています(だんだん、キャンバスにのっける絵の具の量が減ってきて、地の占める面積が増してる感じだなあと、自分で思いました)。今後、もう少し追加してゆくと思います。
https://note.mu/furuyatoshihiro/m/mc2ed923be97d?view=list
(2011年・アートプログラム青梅/2010年・現代ハイツ個展/2006年・A-thingsドローイング展/2005年・かわさきIBM個展/2002年・GALLERY GAN.f個展/2002年・VOCA展、と、六つの展覧会の画像が見られます。しかし、2008年の「組立」の時の画像が探しても見つからない……)
国分寺の、ギャラリー・スイッチポイントでよしおこういちろう展を観た。
国分寺は久々で、おそらく引っ越してからははじめて。国分寺に着くまで片道二時間半もかかってしまった(横須賀線がストップしている影響を東海道線が受けていた、ということもあるけど)。ムサビに行くにはそこからさらに三十分くらいバスに乗らないといけない。なんか、すごく「近い」感じだったところが遠くなってしまった。
(いろいろな経路はあり得るけど、横須賀線がストップして湘南新宿ラインが通っていないならば、結局、東海道線で東京まで出て、東京から中央線という、シンプルですごく大回りな経路が結果として一番速く着く感じで、東京から国分寺まで中央線に乗ったのだけど、新宿からではなく東京からださすがに、久々に、「中央線にがっつり乗る」という気分が味わえた。)
●帰りは電車が混んでいて本は読めなかったけど、行きの二時間半はずっと『魂のレイヤー』(西川アサキ)を読んでいた。まだ半分くらい。
西川さんの本は、問いの立て方がすごく素朴で、しかし、その追究の仕方は超ハイスペック、という感じなのか、と思った。芸術とか哲学とかを変に学んでしまうと、素朴に問いを立てることが難しくなる傾向がある。要するに、張り巡らされた歴史や体系や文脈に絡み取られる。それらのなかにありながらも素朴であるためには、頭が良くなくてはいけないのだなあと思った。いや、ちがうか。頭さえよければ、素朴でありつづけることができる、と考えた方がいい。
いや、そうであるよりも、現在の科学や技術の圧倒的な進歩を前にすると、歴史や体系や文脈は相対化されてしまい(科学・技術の「現在」もまた一つの文脈と言えるが、それは歴史的・文化的文脈とは起源や組成を異にするし、少なくともそれらに拮抗するか、あるいはそれ以上の力をもつので)、結局は素朴であるしかなくなる、ということかもしれない。あるいは、「現在の科学や技術の圧倒的な進歩」というところに、「死への恐怖」を代入してもいいかもれない。本気で死への恐怖をなんとかしようとするために考えるなら、「業界」への配慮などしていられなくなる。
というか、「○を前にすると、歴史や体系や文脈は相対化されてしまうので、素朴であるしかなくなる」という文の、○のところに、「科学や技術の圧倒的な進歩」も「死への恐怖」も、どちらも代入可能という意味で両者は同価であるにもかかわらず、この二つがどうしても混じり合わってくれない(というか、どう関係するのかも分からない)ということこそが「心身問題」ということなのか。
素朴であるということが、自らが感じるリアリティに忠実であるということだとするなら、西川さんのリアリティの源泉には「科学や技術の圧倒的な進歩=過剰な明晰さと操作性(への感嘆と脅威)」と「死への恐怖=わたしの組成の不可解さ」とがあり、両者が相容れないまま同じ強さでせめぎ合って迫って来ているということで、それが「心身問題」という「謎」の形で繰り返し回帰する、ということなのかも。
(「科学や技術の圧倒的な進歩」は、脳が脳を知り脳を操作する、あるいは、人間による知が人間を包み込み人間を越えるものをつくりだす、という形での自己言及、そして、「死への恐怖」は、「わたしの消滅」という「わたしには知り得ないこと」を「わたしが意識する」という形の自己言及、という、それぞれ異なる方向の――しかしどちらも、ループが基底としてあるにもかかわらず、実はそのループこそが基底を揺るがすものでもあるという点で同じ――妙な自己言及を、どうしたって駆動させると思われる。)
●来週17日に、池袋ジュンク堂で『魂のレイヤー』刊行記念イベントがあって西川さんと対談するので、一応、もう一度ここで宣伝しておきます。
https://www.junkudo.co.jp/mj/store/event_detail.php?fair_id=5409