●『悪霊病棟』、一話から十話(最終話)までDVDで観た。
●ホラー表現の根底にある恐怖という感情は原始的なもの、もっと言えば幼稚なものであり、非分節的だと言える。故に、知的には捉え難く扱いが困難だとも言えるが、逆に、それは既に「ヒト」の初期設定に組み込まれたもの、ざっくりと雑な言い方をすれば「DNAに組み込まれたもの」でもあり、その表現技法はシステマティックに追及し得るとも言える。例えばそれは、サブリミナルのような「効果」に限りなく接近し得る。「この音が鳴ると恐怖が自動的に出力されるような仕組みに、ヒトの脳ははじめからなっているのだ」というように。ホラーがもし「効果」や「技術」に還元できるのならば、それはもはや科学の領域であり、作品(価値)としての意味を問えなくなる。
ホラーは、(技法としては高度化したとしても)作品としては幼稚な感情に訴える素朴なものであり、だからこそ根源的だとも強い(大衆的であり得る)とも言える反面、結局それは「効果」の問題でしかないのではないかという疑問に常にとりつかれているし、そこから逃れられない。Aというスイッチを押せば恐怖成分aが、Bというスイッチを押せば恐怖成分bが分泌され、それを丁度3:2となるように配合すれば、絶大な恐怖と魅了を生み出す効果が得られる。Aはナラティブの問題であり、Bは感覚的操作の問題である。仮にこのような公式が解明されたとすれば、あとはひたすら技術の問題となる。
複雑な表現という時の複雑さは、作り手のオペレーションの問題となり、その複雑さ自体が表現や物語やコンセプトとして前景化してしまうと、恐怖という(素朴な)感情が阻害されてしまう。ならば、恐怖は操作の痕跡が見えないように丹念に操作された効果でしかないのか。それとも、恐怖そのものを(その素朴さを保持したままで)たんなる効果に還元されない表現(価値)として組織し得るのか。生ものが生ものである生々しさが保持されたままでそこに価値や構築性をもたせることができるのか。いや、構築性をもたせることにそもそも意味があるのか。ホラー表現が面白いのは、このようなのっぴきならない問いを、その都度、常に、あからさまな形で直撃的に突きつけられているからではないか。
(例えば、ホラーがコメディと接続される時、「恐怖」と「笑い」という二つの「生もの」の間で作用する緊張によって、たんなる「効果」とは別の何ものかを生み出そうとしているのではないか。)
(というか、そもそも「ホラーを観て楽しむ」ということ自体が既に、恐怖という感情を自分から半分くらいは切り離して、操作的に対象化しているということではあるのだけど。)
しかしこの問いは、ホラーに限らずあらゆる作品に突きつけられている。そもそも、効果を越えた「価値」などというものがこの世界に本当にあると言えるのか。言い換えれば、科学(真)に還元されない善や美などあるのか。それは勿論、簡単に「ある」ともいえないし「ない」ともいえない。「ある」とも「ない」ともいえないからこそ、「作品」などという、効果を狙っているのか価値を狙っているのかよく分からない、どっちつかずの半端なものにこだわるしかなくなるのだが、どうも「ない」んじゃないかという方向の風向きが強くなると、「作品」というものをどこかで信じられなくなる。それは、「わたし」という何かが「ある」と言えるのか、そんなものは「ない」と言うべきなのか、という問いにも似ている。
(「それでも作品を信じている」とか、「いや、作品など信じるべきではない」とか、口先だけならどちらでもどうとでも言えるが、本当に「信じている」などと言えるのか、あるいは、「信じていない」などという状態でいることが本当に可能なのか、どこかでインチキして信じちゃってるのではないのか、と問われると、いずれにしろ自信はないのだ。)
●だけど、逆から考えれば、「価値」が存在しないとしたら、どこから「効果」などというものが湧いて出てくるのか、という問いもあり得るのだが。それは、何かしらの形で価値を見出す「わたし」がないのならば、どうして「世界」があり得るのか、という問いとも言えると思う。