●作品を「理解するため」に考えたり勉強したりしなくてはいけないという考え方はちょっと違っているように思う。作品が、考えることを促す、誘う、強いる、から、考える、ということではないか。ある作品を理解しなくちゃいけない義務も義理もない。興味がなければ黙って通り過ぎればいい。例えばそれが職場の同僚とかだったら、その人にまったく興味がないしとても、多少は相手のことを理解する必要があるだろう(挨拶もせずに黙って通り過ぎるわけにもいかない)。そうでなければ仕事に支障が出る。作品というあり様がすばらしいのは、作品に対してはそんな義務も義理も必要性もないことではいか。作品など理解しなくても生きるのに何の支障もない。作品を理解しなければならない社会的な義務もない。にもかかわらず、ある作品が(作品の経験が)わたしを捉え、促し、誘い、強いる。だからこそ作品は、必要性とは別のところで、わたしが生きることを支えうる。
●とはいえ、現実問題として、人が何かの専門家になったり、事情通になったり、常連になったりすると、まるで職場の同僚であるかのような義理や義務が作品に対して生じてしまう。完全に透明で匿名の観客ででもない限り、このような関係を避けることはできない。そして、あらゆるしがらみから自由な完全に透明で匿名な観客であることは不可能だ。ここに、作品を「理解しなくちゃならない」というような義理や義務が生じ、作品とわたしとの関係のなかに社会的媒介が紛れ込むことは不可避となる。ならば、純粋な「作品の経験」などないということにもなる。それならいっそ逆転して、(とりあえず作品と呼ばれる)何がしかの媒介物をでっちあげ、それを通した社会的関係性そのものの方を問題とし、それ(関係性)こそを「作品」とするという行き方も可能だろう。個とは関係−文脈の効果であり、関係によってしか成立ないとすれば、作品(個)は関係の流動性(その可能性)の表現としてある、と。関係――文脈や諸言説――の組み替え(可能性)こそが、個としての作品の組み替え(可能性)である、と。
ただ、そうであるとすれば、「作品」が作品であることの意味はどこにあるのか。例えば、作品と商品はどう違うのか、作品と労働はどう違うのか、作品と貨幣とはどう違うのか、ということになる。違わない、ということもできるし、作品は、商品や労働や貨幣のオルタナティブ(社会的な運動)であるということも出来る。つまり、違わないからこそ意味があるのだ、ということもできる。
●そこでもまた、しかし、という疑問が出てくる。作品の経験というものを、本当に社会的な関係性に還元できるのだろうか、と。大仰な言い方をすれば、革命は個人の生を支えうるのか、革命は死の恐怖を解消しうるのか、ということにもなる。革命という言葉が適当でないならば、ぐっと穏便にそれを「良い(出来る限り多数の者にとっても良い)社会的関係を目指すこと」と言い換えてもいい。あるいは「みんなで楽しくやれること」と言ってもいい。個人的な感覚で言えば、ぼくはそれを信用し切れない(というか、それはとてもすばらしいことだが、それだけではきっと足りない)。信用し切れないからこそ「作品」が、その深さや強さが問題となり、必要になる。
●作品という概念は、このようにくるくるとひっくり返り、また裏返る。作品のもつ固有で特異な「力」が関係を動かすのか、関係(文脈・状況)のある一断面の表現として作品が現象するのか。ニワトリか卵か、天才か状況か、内包か外延か、結節点かネットワークか、一か多か。もちろん、このような二項対立的な問題の設定がそもそも間違っているのは明らかだけど、われわれはその間違った問題のなかに、間違っていると分かっていつつも未だ閉じ込められているとも言える。そしてこの「閉じ込め」を開く契機となり得るものが、作品というもののこの両義性(ひっくくり返り)にあるのではないかと思う。それは、底まで追い詰めたと思うとくるっと裏返り、さらに裏返り、また裏返り、何度でも裏返る。その度に、わたしが裏返り、世界が裏返る。裏返りの裏返りで元に戻るのではなく、内と外とを何重にも織り込んだ、より複雑な入れ子構造になる。作品は少なくとも、その複雑さを許容するだけの器である必要はあるのではないか。