●時期を逸してしまったような変なタイミングだし、それこそ余計な一丁噛みでしかなく、「風が吹けば桶屋が儲かる」展のトークも何も聞いてないし、下の議論の「文脈」を理解しているとはいえないから反応としてはまったく見当はずれなことを言っているかもしれない(そもそも下の話が風桶展に関するものだとはどこにも明示されていないし)ので、気が引ける感じなのだけど、比喩の使い方にやや気になるものを感じたので、自分の考えを整理するためにも、あくまで早とちりの無責任な放言としてちょっと書いてみる。下のリンク(togetter「芸術と日常の関係 - 「文脈を理解してから作品を批判しろ」というとき、その作品を批判する文脈については想定されていない」)を読んで考えたこと。
http://togetter.com/li/451963
こごでひっかかるのは、料理についての判断基準が、はじめから「うまい/まずい」しか想定されていないこと。絶対的な判断基準として「うまい/まずい」があったうえで、その料理についてのいろいろなうんちく(文脈)があると言われても、でも、うんちくがどうだろうと、まずいものはまずいよね、という話になっているように(ここからだけだと)読める。でも、文脈が問題になるとしたら、そういうことではなく、料理の判断基準として「うまい/まずい」だけがあるのではない、ということが問題となるのではないだろうか。
たとえば、「この料理を食べ続けることである症状に一定の効果が期待される/か、されないか」、「この料理を食べると今晩ビンビンになっておねえちゃんをヒイヒイいわせることができる/か、できないか」、「この料理を食べることで宗教的に身体が浄化される/か、されないか」という判断もあり得る。実際、これはまずいけど、食べるとすげー勃ちがよくなる、と言ってそれを選択するおっさんとか普通にいると思う。自分が「そういうおっさん」ではないことをもってその料理を批判するのは間違っているだろう。そういうものだと知らずに食べちゃって「まずい」と言っている人に、「すいませんねえ、うちはそういう店ではないんですよ(=文脈を知ってから批判しろ)」と言い返すのはある程度は正当なことだろう。「まずい」と思うのは勝手だし、それによって二度とその店に行かないという判断も自由だけど、それを理由にクレームをつける――「まずい」という判断を正当化するために批判する――のは正当とは言えないんじゃないだろうか。
ここで、「うまい/まずい」を問題にするものを「芸術」、「そうじゃない判断もあり得る」を問題にするものを反芸術(日常)という二項対立的な構図にしてしまうのは、貧しいことのように思える。そのような二項対立では、反芸術の存在こそが、芸術(うまい/まずい)を純粋化させる、ということになってしまう。例えば、あやしいホルモン屋(勃ちがいい/悪い)を持ち上げることが、逆に高級西洋料理店(うまい/まずい)の純粋性を際立たせてしまうというような。芸術こそが、その特権化と境界画定のために反芸術(の取り込み)を必要としているのだ、とか。いや、そうではなく、そのスキャンダラスな境界付近の係争こそがクリティカルなアートなのだ、とか。どちらにしてもそれはフレーム−権力問題みたいなことになって、まさに文化相対主義的で、そっちに行ってもあんまり面白くないと、ぼくは思っている(依然としてそこに問題があるという立場も――現状をみると――分からないではないけど)。で、風桶展がそういうものではないかという批判はあり得る。
(もとの話とはだんだん関係なくなりつつあるけど)風桶展への典型的な批判のパターンはおそらく二つあって、一つは、これじゃあうまいもまずいも言えない、理屈を言う前にちゃんとした「料理(芸術)と言える代物」を出せというもの、もう一つは、もはや「芸術」という強い枠組みなど(マーケット以外には)どこにもありはしないのだから、それに対して「反芸術(日常)」をたててもあまり意味がない、あるいは、反芸術足り得ていない、というもの。一つめのものは、たんに「うまい/まずい」以外の判断基準を想像することもできない(というか、想像しようともしない)ということで問題外だろう。それは、文脈を理解する/しない、以前に、別の文脈があり得るのかもれないという想像力がないということだ。(「勃ち」が問題である料理に「まずい」と言ってクレームをつける人のように。)
二つめの批判に対しては、しかしそもそも、そのような批判をする人の頭のなかに(暗黙のうちに)ある問題構成(二項対立とその崩れ)こそが、もはや古いのだという意識が、この展覧会に出品する作家たちの共通した感覚のように思える、と言うことができる。「はじめから芸術/反芸術(日常)なんていう構図は想定さえしてなかったよ」というような(実際に聞いたわけじゃないです、念のため)。つまり、何か(芸術/反芸術と、その境界画定のあやふやさ、しかしそれによって逆に「芸術」が強化される、という問題)があって、今は既にそのリアルな緊張感は失われた、ではなく、はじめから何もないところから考えているのだ、と。Artworldなど、市立第三中学みたいなもので、自分はたまたま、第一中学でも第五中学(例えばアニメ業界とか家電量販店業界とか)でもなく第三中学の学区に属するので、第三中に与えられた枠組み――文脈含め――のなかで何か面白いことをやってみよう、くらいの感じなのではないだろうか。だからそれは、第三中学批判(を通じた第三中的フレームの強化)とははじめから向きが逆であるように思われる。むしろ、どうやったら第三中学の学区内が(第三中が今持つ資源のなかで、それをうまく活用して)盛り上がれるのか、という感じではないか。実際、展覧会はすごく「普通の現代美術展」という感じがした。そして、それを「内向き」として批判することもまた、間違いであるように思う。
東京都現代美術館という公的な場、そしてMOTアニュアルというブランドは、確かに市立第三中学の学区内では比較的目立った場所かもしれないけど、そもそも市立の中学は、第一中から第五中まであって、他にも私立の中高一貫校もあるし、中学は市外にはそれこそいくらでもある。それらはそれぞれ、ある程度自律した小さな世界であり固有の文脈があるが、同時に、どこかで緩く繋がっていて交流もある。完全に閉じられてはいないし、また、完全に開かれてもいない。すべてを見通せる(あるいは相対化する)視点はどこにもないが、特定の視点に縛られる必要もない(Aは第三中の生徒であり、同時に市街地の進学塾に通い、県庁所在地にあるサッカークラブに所属している、かもしれない)。(文脈を完全に共有する)完全なインサイダーもいないし、(まったく何の手がかりをもたない)完全なアウトサイダーもいないはず。それを観る人は誰でもが、それぞれ自分が持っているものをもとに手さぐりでチューニングを探るのであり(お客様はただ受動的に「観れ(食え)」ばいいなどあり得ない)、どの視点もそれ固有の限定性と偏りをもち、すべてを理解する者はいないが、だからと言って、普通に生きている人ならまったくお手上げということもないだろう。その時、Artworld(第三中)だけが特に閉じられているのでもないし、特権化されているわけでもない。
芸術/日常(反芸術)という境界があり、それぞれの領地がある(それはおそらく「自己/他者」という問題にも変奏可能だとも思うけど)のではなく、芸術には芸術で複数の文脈レイヤーがあり、日常には日常で複数の文脈レイヤーがあって、それらのレイヤーは共通の地(この世界)を共有しつつ、それぞれ自律し、しかし互いに幾重にも重なり合い、干渉し合ってもいる。純粋な芸術も純粋な日常もなく、あらかじめ混じっているが、二つが同一化するわけではないし、その混じり方は一様ではない。だからそれは領地と境界という概念(例えば、A/非Aというような)ではとらえられない。境界の侵犯とか、領域があったうえで横断性がある、というような平板な概念では足りない。それぞれ異なるレイヤーの異なる波長が複数重なって干渉が起きたとすると、ある時ある場所には波が打ち消し合って陥没地帯のような空白が開け、ある時ある場所には波が強化し合って大きなピークが生まれる。その陥没やピークこそが重要なものなのだと思うのだが、それは境界や専門性、あるいは作品や作家の個別性によって囲い込むことはできない(はじめから囲い込めていない――干渉し合っている――のだから、侵犯や横断は「結果としてそう見える」に過ぎない)。芸術も日常も、境界線の内にはない(勿論、その「外」にあるというのでもないし「間」にあるというのでもない)。たんに、離散的に、突発的に、どこにでもありうるから囲い込めないし操作できない(一つの展覧会――あるいは「作品」――は、それを可視化するための一時的な、魚の群れを取る網のような、仮りのフレームであり結節点である)。おそらく、ウェブ上にある風桶展のステイトメントが言おうとしているのは、(すごく意訳してるけど)このようなことではないかとぼくは受け取った。
で、そういう展覧会として風桶展がどうだったかといえば、ぼくには、特にそんなには面白くは感じられなかったのだけど。そこで、囲い込めない陥没やピークをどのように誘い出し、捉え、持続、伝達、反復可能にするかという、支持体にかんする佐藤雄一的な問題が、改めて浮上するのだと思う。おそらく、そこが足りていないことが問題なのだとぼくには思われた。近代的な(境界画定的な)メディウムスペシフィックから遠く離れてメディウム(投瓶通信に耐えうる瓶)について考えること。しかしその時「メディウム」は「境界付けられた制度的な器」とはどう違うのか(佐藤さんはこれを、「あなた」を変形させ得る「リズム」、あるいは「習慣」を創発させる力だとして論を展開してると思うのだが)。この時、「芸術/日常」が絡み合った場にふたたび降臨する「投瓶に耐え得る瓶」(リズム?習慣?波動?)としての「芸術」という語は、「芸術/反芸術」の差異によって境界画定される近代(そして後期近代)的な「芸術」とは別のものになっているはずだと思う。そしておそらくその思考は、近代(後期近代)的なものとは別の「自/他」関係を帰結させることになると思う。ここを真剣に考えないといけないと、改めて思ったのだった。