●イーガンの「ひとりっ子」を読んでみたのだけど(短編集すべてを読んだのではなく表題作だけ)これは一体どう読めばいいのだろうか。量子論VS古典論という対立の戯画化みたいな話ということでいいのだろうか。例えば「ワンの絨毯」では、量子論や多宇宙論という道具立ては使われていなくても、「多宇宙論的世界観を受け入れた世界(人)」の感触が具体的に生々しく描かれていたと思うのだけど、「ひとりっ子」は逆に、それを受け入れることを頑なに拒む者からみた世界という感じになっている。要するに、基本として一見常識的ということだけど。この「一見」が曲者だ。
何というのか、この徹底して通俗的な「お話」が皮肉なのかベタなのかがよく分からない。ある事件−決断によって自分に対する自信を得て、その自信の裏付けによって将来妻となる女性を口説くことが出来た(つまり、自分の主体的な決断が未来を切り開いた)と信じる主人公が、量子論によって帰結される多宇宙論(可能性の数だけ宇宙が分岐する――つまり、たまたま「この宇宙」の自分は決断したが、決断しなかった別の自分も存在し、自分が決断したのは「こっち側」だったから――確率の問題――に過ぎないということになる)に対する不快感から、この宇宙以外のほかの多宇宙との相互作用――つまり量子的干渉――を遮断して計算を行うことのできる「クァスプ」という装置(量子コンピュータ)をつくる(主人公は研究者なのだ)。そして、自分たちの「娘」としてつくったAIをその「クァスプ」の上で走らせることで、この(量子論的)宇宙のなかで唯一人の「(多宇宙からの干渉を受けない)唯一のわたしという存在(=娘)」をつくりだしてしまうという話。それはつまり、多宇宙の「わたし」による干渉から自律した「このわたし」としての「決断」を可能にする「わたし」となる。それは、AIであることを除けば外見上は「他のわたし(たち)」と何も変わらないありふれた「わたし」なのにもかかわらず、本来ならばあり得ないはずの存在である。だから、自らのエゴによってそんな怪物(娘)を作り出してしまう親の狂気の物語とも解釈できる。神はサイコロを振るべきではないのに、どうやらサイコロを振っているみたいだから、それなら神のサイコロを封じる存在を(次世代の存在−娘として)つくってしまえ、というような涜神的なことになる。このように要約すると、この物語は皮肉であるようにみえる。
しかし、この小説はあくまで、主人公である「常識的で誠実な父」の側から書かれる通俗的な物語として進行する(つまり、古典的な世界像に基づく唯一の宇宙――主体的決断が存在する――こそが「まともな考え」なのだという常識的な前提に立っているように感じられる)。その場合、「まともでない」のは「この宇宙(世界)」の方であるということになる。この物語は、極端なことを言えば、娘が、親の信仰によって顔に勝手に変な刺青を入れられてしまい、その刺青によって奇異な目でみられるようになった娘はグレるのだけど、しかし、刺青には(狂信からではない)「本当の由来」があって、娘はそれを後から父に聞かされて納得して和解する、みたいな話と構造的に同じなのだ。親の狂気やエゴが宇宙さえ歪ませてしまうという物語(多宇宙論が正しいとすればそういうことになるはず)としてではなく、グレた娘の危機を親が救い、そして親に救われ「本当の由来」を聞いた娘はそれに納得して、更生し、さあ、この宇宙で唯一の存在であることを肝に銘じて(他の宇宙から影響されない「決断」によって)前に進もう!、というような「いい話」であるかのように希望的な調子で終わる。つまり「常識」は、「理」はこちら側にこそあるのだ、という調子だ。しかしこの調子をベタに受け取っていいのか、という疑問も生じる。
そもそもこの小説は、ハードな思弁の部分(多宇宙論における「あり得た可能性のすべて」と「唯一のわたし」の対立関係、その主題を可能にする装置としての「クァスプ」)と、あまりに通俗的な物語の部分(あるカップル−夫婦と、AIとしてつくられたその娘のお話)とが、まったく噛み合っていないように思われるのだけど、この「噛み合わなさ」にこそ、ある種の戯画的な意図があるのかもしれないと思わせるところもある。
だからおそらく、そのどちらにもとれてしまうということそのものがこの小説の示す「皮肉」であり、この小説は一個のパラドクスのように存在しているということなのだろう。そういう意味ではよくできているのだろうけど、でも、それは読んだ後からいろいろ考えればそうなるということで、正直に言えば、読んでいる間はかなり退屈だった。「ワンの絨毯」のように、驚くべき世界をみせてくれるのではなくて、(量子論的うんちくの部分以外は)常識的で通俗的な物語が淡々と語られているだけだから。
しかし、この小説の異様さは、主人公がつくってしまったこの宇宙でただ一人しかいない異様な怪物である「わたし(娘)」が、多宇宙的な視点をもたない、この宇宙内からの視点でみれば、(AIではあるけど)無数にいる他の「わたし(たち)」と何も変わりない「わたし」でしかないということだ。この娘ソフィは、だから「シュタゲ」のオカリンと同じで、多宇宙を行き来することではじめてその特異性があらわれる。でも、この宇宙の中にいる限り他の人たちとまったく区別がつかない。つまり「一見」当たり前の存在なのだ。だから、この宇宙の中だけで進行するこの小説のお話は、どうしたって普通の、常識的な物語と「どこが違うのか」よく分からなくなるのは必然的なことだとも言える。
●「クァスプ」の開発途中の、クァスプ上で走らせたヴァーチャル・ネズミの迷路実験について次のように書かれている。これがそのままこの小説の不思議さを表わしている。
≪コンテクストを知らずにこの結果を見ても、印象的なところが皆無の見せ物にしか思えないだろう。正確に同じ状況に直面させられたヴァーチャル・ネズミのゼルダが、正確に同一の行動をとった。だからどうした?≫
だが、このネズミが一万回繰り返される実験のなかで一万回まったく同じ経路を通るのは、≪クァスプはいちどにひとつ計算しかおこなわないが、唯一の結果に至る過程で、ほかのありうる結果(オルタナティブ)を現実にする危険をおかすことなく、オルタナティブをいくつでも含む重ね合わせの状態を通過できる≫からなのだ。この変な文章。この部分にこの小説の異様さが集約されているように思う。