●『リライト』(法条遥)。すごく面白かった。いろいろ無理があるとか、細部が粗い(というか薄い、全体に作家の「幼さ」――若さ、ではなく――が出てしまっている感じ)とか突っ込みどころは多々あるとしても、それらを補って余りある面白さ。そもそも話の前提に無理があり過ぎるということは確かに言える。でも、そこはとりあえず飲み込んで、「それをありだとすればどうなのか」という思考実験として考えれば、これは相当すごいことをやっていると思う。『バイロケーション』と共通した主題も感じられて、この作家の小説は他のものも読みたいと思った。以下のリンクは『バイロケーション』の感想。
http://d.hatena.ne.jp/furuyatoshihiro/20130322
三月三十日の日記で「ノックス・マシン」について、≪タイムスリップの話で、時間線の分岐を否定する(抑制する)としたら、物語の構造は原因と結果がループ状につながる(反転する)という形になりがち≫ということを書いたのだけど、この小説はまさにそっちの方向を徹底してやり切ることで別の出口へ出てしまったという感じ。あと、この小説は明らかに細田守版『時をかける少女』の本歌取りなのだけど、ぼくは、細田版『時かけ』をあまり好きになれないので、あの作品に対してこういう嫌な話をカウンターとしてぶつけたくなる気持ちも分かる気がする。『バイロケーション』もそうだったのだが、この作家の書く小説は基本的に陰気で嫌な話なのだけど、陰気で嫌な話が下品にならないところが面白い。一方で、陰気で狭量な女性の感情が底にありつつ、しかしもう一方で、しみったれた陰気さなどをつき破ってしまうくらいの非情な(乾いた)ロジックが支配している。だから、暗いのだけど、じとっとはしていない。いや、じとっとしてはいるけど、小説の構造のアクロバットや主題の面白さ(その徹底ぶり)の方に引っ張られるので、そっちの方にあまり気を取られないといった方がいいのか。この小説についてはネタバレなしで書くことは出来ないので、これ以降はネタバレあり。
●その携帯電話はどこから湧いて出てきたのか。この小説を読んでいる途中、ほとんどの人がそれを疑問に思うだろう。ある出来事が原因となり、ある結果が生じる。しかしその結果こそが、(過去に戻って)原因に影響していたとすれば…。携帯電話が普及する前の時代の人物Aが十年後に行って携帯電話をもって帰る。Aはその携帯電話を大切に保管し、十年後に、十年前の自分がそれを取りに来ることに備える。(十年後に)十年前のAが現在から持ち去る携帯電話は、十年前にAが未来から持ち帰った物だった。だとするとその携帯電話は「いつ」つくられたのか。その電話がつくられる「今」はこの世界の時間のなかには存在していない。タイムリープ物が陥りがちな原因と結果のループの矛盾を、この「携帯電話」が示している。『リライト』はこの矛盾を徹底的に追及する。このような出来事が本当に起こるとすれば、この世界で起きている出来事の原因は、この世界の内部にはない(因果律がこの世界内で閉じられない)ということになってしまう。携帯電話が「ある」ということは、この世界の外にある何かしらの原因によって決まっている、と。その原因を(この世界の内側にいる)我々は決して知ることはできない。そういうもののことを、我々は普通、運命と呼ぶだろう。
例えば、帯状の紙を一ひねりしてつなげるとメビウスの帯になり、裏表がなくなる。そのねじれを、三次元に存在する我々は外から見ることが出来る。しかし、二次元に存在していたとすると、そのねじれを知ることは出来なくなる。二次元人は、自分が通常の輪になった帯の上に存在するのか、メビウスの帯の上に存在するのか確かめることができない。我々の住む三次元に四次元的なねじれがあれば、我々もまたそれを知ることは出来ず、ただ思弁的にその可能性を考えることができるだけだろう。
我々が簡単に神や超越性をお払い箱に出来ない理由がここにある。この宇宙がこのようにしてあることを支えている物理法則が、「このようなもの」であることの原因は、この宇宙の内部にあるのか、それとも外部にあるのか。この宇宙がこのようにあることの基礎である物理法則の根拠を、この宇宙の内部にある要素だけを使って解明する(説明し証明する)ことなど本当に可能なのか。もしそれが可能でないとすれば(つまり、携帯電話がつくられた「今」を特定できないとすれば)、物理法則の根拠はこの宇宙の外に求めるしかなく、神や超越性が必要となってくる。現代の物理学が多宇宙論を考えざるを得ない原因もそこにあるのではないか。多数の宇宙があり、その相互作用によって、この宇宙の因果が決定されているのだとすれば、とりあえずは神や超越を言い出さなくても済む。しかし多宇宙であることの蓋然性の高さを示すことは可能でも、それを証明することは難しい。
例えば『シュタインズゲート』の複数の世界線のような物語は、(完全にではないが、半ば)多宇宙論的であろう。しかし『リライト』では世界の複数化は採用されない。故に(神ではないが)「運命」が「シュタゲ」よりもはるかに強力に作用することになる。運命の強力な作用は、とうとう、いま、ここを、世界の外へと押し出し、跡形もなく消失させてしまうところまでゆく。
『リライト』という小説を背後から支えている世界観は、以上のようなものだと思われる。
●『リライト』と『バイロケーション』の両方に、「わたし」の唯一性の揺らぎという感触がある(タイムリープが肯定され、世界の複数化が否定されると、必然的に「この世界のわたし」が複数化する)。『バイロケーション』では、わたしとまったく同じもう一人のわたしが出現してしまう。『リライト』では、わたしの唯一性を支えるような重要な「物語」が、実は反復された、演じられたものでしかなかったことが明かされる。クラス全員がそれぞれ「わたしだけのもの」だと思っていた物語(人との関係)は、実はクラスの全員によって「共有」されていた。しかしこのような感触は、それ自体では必ずしも否定的なものとは言えない。例えばグレッグ・イーガンの「ワンの絨毯」では、相互に交換可能なものとしての「わたし」の複数性が受け入れられた世界の感触が具体的に描かれていた(しかしそのために「唯一の身体」は消失されていた)。それでも、法条遥の作品においてわたしの唯一性の揺らぎが両作共にネガティブに作用するのは、「わたしの唯一性」を支えるのが「わたしを唯一の者と見なす唯一の他者」の存在であるからだろう。『バイロケーション』のラストでも、オリジナルとバイロケーションの決裂は、愛する(唯一の)人をもう一方の別のわたしと共有できるかできないかの違いによっていた(逆説的に、唯一の愛する人との時間を持つことができた者だけが、唯一の相手の「共有(あなた/わたしの複数化)」を受け入れられるのだった)。
『リライト』ではもう少し話が込み入っている。『リライト』は、「よい物語」というものが、多くの人に愛されるのと同時に、それを愛するそれぞれの人にとっては「唯一のわたしのためにある物語」であると感じさせるものだという事実の裏返しとして成立している。そもそも、「よい物語(ここでは『時をかける少女』だろう)」が、多くの人に共有されつつも、「わたしにとってのかけがえのないもの」でもあり得るという事実が、「わたしの複数性」の肯定に繋がると思われるのだが、ここではそれが意地悪で狭量な感情とともに裏返されている。
●オリジナルであるはずの「わたし」が実はコピーでしかないかもしれないという感触は同時に、コピーでしかない「わたし」も実はオリジナルと同等であり得るということであり、これをポジティブに捉えるのかネガティブに捉えるのかは「感情」の問題であるように思う。『リライト』ではそもそも、一番初めのオリジナルな出来事からして、「小説」の模倣であったのだし。そしてこの「小説」の内容もまた携帯電話同様、どこか世界の外から降って湧いたものなのだ。だとすればそれを共有可能な恩寵のようなものとして捉えることもできるはずだ。
●作者はもう一つ別の意地悪さをこの世界に追加している。それはクラス全員からシカトされている女の子の存在だ。この女の子の存在は、読者に対しても途中までは隠されている。作者が読者に対して隠すという行為が、クラスメートが女の子に対してとっている態度の陰湿さを表現する。しかしそれと同時に、世界それ自体のもつ欠落(世界それ自体が女の子の存在を隠ぺいしている――女の子は世界それ自体から見放されている)を意識させる。この女の子のもつ悪意は世界そのもののもつ悪意の裏返し−カウンターでもある。『リライト』はここで、『時かけ』+『花子さん』(黒沢清)のような様相をみせる。
だからこそ彼女は世界−歴史を書き換えることができる。世界の複数性が否定されることで、運命−法が世界に対して優位に立つのがこの小説世界だとすれば、その運命の優位が彼女に味方して、「この世界」をまるごと消失させることになる。そして、「この世界」では世界から見放されていた彼女のみが唯一の勝ち組となる「別の世界」(つまり、物語が、そして愛する人が、共有されずに独り占めされる狭量な世界)が再構築される。
●ここで、『リライト』の物語を未来人である保彦の側から考えてみたい。彼は、最初の、つまりオリジナルな出来事の思い出を保存するために(というより、自分がそこからやって来た――帰るべき――「未来」を再創造するために)、何度もタイムリープを繰り返しつつ、同じ物語をクラス全員に対して反復的に演じることを強いられる。ここからすぐさま、『シュタインズゲート』の岡部倫太郎が想起されるのではないか。岡部は、幼馴染の死を回避するために、何度も異なる世界線上の同じ時間をループすることを強いられる。その間、幼馴染は何度も繰り返し死ぬ。しかし前述したように、『リライト』では世界の複数化は採用されない。だから逆に、タイムリープする度に世界ではなく保彦の方が複数化し、「この世界(同じ時間)」に何人もの保彦が同時に存在し、物語の反復はこの世界内の空間を分割して演じられることになる。ここで保彦(唯一の他者)の共有できなさは、≪二個の者が same space ヲ occupy スル訳には行かぬ≫(夏目漱石)というような空間的な原理からくるのかもしれない。
(世界や時間の流れはあくまで一つであり、故に世界が変わると「帰るべき未来」が消失してしまうというのは、「シュタゲ」より「エンドレスエイト」の世界に近い)。
●保彦の主観としては、保彦はただ一人であるけど、「この世界の客観」という視点からは、(1992年の)保彦は複数化していることになる。だが、おそらくそこにこそ重要な問題がある。この小説世界では保彦は常に一人であり(複数の保彦が鉢合わせることは「運命」によって禁じられている)、だから保彦とはクラスの誰かにとっての(あるいは自分自身にとっての)保彦であり、その都度一人の保彦としてしか存在しない。つまり、『リライト』の世界では客観がない。互いに断絶を挟んだ、いくつもの主観の縫い合わせとしてしか、この物語(世界そのもの)は記述できなくなっている(いわゆる「観測問題」?)。出来事は主観のなかで、あるいは、複数の主観の間で起こっている。これはたんに叙述のテクニックではなく、世界の組成の問題だろう。もし客観という視点が存在できれば、携帯電話が生じた(つくられた)「どこか/いつか」が存在するはずであろう。しかし、携帯電話がつくられ得る可能性のある時間は、この世界の内部にはない。つまり、因果の縺れのすべてを漏れなく俯瞰し得る視点は、この世界の内には存在しない(世界は不連続な切片の寄せ集めとなり、事実上複数化している)。それは、この世界そのものがはじめから滑らかなものではく、欠落や断絶を含んでいるというこだろう。そもそも、欠落や断絶がなければ、この小説の物語が成立し得ない。美雪が小説を書くはずはない。ここには、客観がないかわりに「運命=法(≒茂の説明)」がある。しかしこの小説世界そのものは、運命が作動している過程であり、リライトの途中としてあるのだ。世界は常に一つであり、運命がすべてを瞬時に書き換えるのならば、世界の外に押し出されたこの小説世界ははじめから存在しないことになる。しかし存在する。それは、絶対的なものにみえる「運命」にも計算過程が必要だからだ。運命も計算なしには答えを出せない。運命が計算を行っているその間、「この世界」は存在している。
実はこのことが、運命の絶対性を弱め、『リライト』の結末を揺るがす、別の可能性もあり得ることをかすかに示唆する。それは、物語の共有が、交換可能な「わたし」の複数化の肯定がありえるかもしれない世界の可能性だ。
●『リライト』には、物語のつじつま合わせという次元では大きな矛盾があるように思う。旧校舎が崩壊する非常に重要な場面で、もし世界が一つしかないのならば、つまり旧校舎の崩壊が一度しか起こらないならば、その時、茂以外のクラス全員+細田先生と「40人の保彦」が同時に旧校舎のなかに別々にいたことになる。そして崩壊の瞬間、クラス全員が一斉にそれぞれ別の保彦によって校舎の外に突き飛ばされたことになるのではないか(これはこれでとても面白いイメージだが)。だとしたら、そこで他のクラスメートを見かけない(クラスメート同士が鉢合わせにならない)のはあまりに不自然であろう。だがこれを矛盾としてではなく、可能性としてみることもできる。
つまり、旧校舎のなかに八十人も同時に人が居たという客観的な俯瞰図はないのだ、としたら。様々な「無理」の集約点でもある旧校舎の崩壊という出来事の時にだけは世界の複数化が起こり、クラス全員はそれぞれ別の世界で一人ずつそれを経験したと考えることもできるのではないか。であれば、世界は一つだという前提は必ずしも絶対的ではなく、揺らぐことになる。そうなれば運命の絶対的な強さも少しは後退する。世界全体が完璧に書き換えられる(「この世界」がまったく消失する)というわけではないかもしれない、ということにもなる。