●『営繕かるかや怪異譚』(小野不由美)。図書館に用事があって行った時、棚にさしてあるのが目について、なんとなく気になって借りてみた。面白かった。読みやすい古井由吉みたいな感じもある。
オカルトとホラーの違いということを考える。ここでホラーとは、ラブクラフトみたいなホラーではなく、Jホラーのようなホラーのことで、「怪談」と言った方がよいのかもしれない。
オカルトは疑似科学であり、それは科学の鬼っ子であり、「疑似」ではあっても科学の装いをもち、つまりそこでは理論や説明が要請され、体系が要請されている。対して、ホラー(怪談)は、ある亀裂やゆがみの露呈であって、理論や体系以前にあるもので、理論化、体系化されたら消えてしまうものを扱っているように思う。
だからホラーにおいては、まとまりのない、解決のつかない、隙間の多い、断片がそのまま放置されているような状態の、短いものの方がリアルである。それは、人間と非人間的な何かの、出会いであり、出会い損ないであろう。それは深淵の露呈であり、図柄の問題ではなく、地そのもののゆがみの問題である。そこにあるのは恐怖そのもの、あるいは奇妙さや違和感そのものであって、その説明や解決ではないだろう。
そこにあるのは、非人間的なものそのものではなく、非人間的なものが、人間的なもののなかに侵入してしまうという出来事だろう(科学は、非人間的なものそのものを説明しようとする努力だろう)。それは逆に言えば、人間が非人間的なものに触れてしまうということだ。非人間的なものに触れてしまうような時、人間は、本来触れ合えないものに触れてしまう、特異な感情の状態にあったり、特異な状況にあったりする(ある種の「切羽詰まった」状態にある)と言える。つまり、非人間的なものの露呈という出来事は、結果として、同時に人間におけるある感情や状態のリアルな表現にもなる。
(だがそれは、あくまで「結果として表現することになる」のであるから、ホラー的な出来事を、人間の感情や状況の表現へと還元し切ることは出来ないだろう。そこには非人間的な何ものかが確かにある、と考えられる。)
●とはいえ、人間には、違和感そのもの、恐怖そのものを、そのままそれ自体として放置しておくことは難しいだろう。放置すると自身が崩壊してしまう危機になる。そこに、何かしらの形での解決、あるいは、解決にまでは至らないとしても、納得、あるいは腑に落ちる感じ、が必要とされるだろう。あるいは、それを見なくても済むようにする覆いのようなものが必要となる。
(継続可能な「わたし」が再度つくり直されるために。)
ここで問題となるのが、必ずしも合理的とは言えないような、何かしらの「納得の形式」であるように思われる。ここでオカルトと異なるのは、説明ではなく納得であるというところだ。説明できなくても納得できれば(腑に落ちれば)、とりあえずは、よい。あるいは、解決(解明)できなくても、(人間的世界が)崩壊せず持ちこたえられるような身のこなし方があればよい。
この時の「納得の形式」は、人間の原初的な直観の形式に近いものである必要があるのではないか。神話において作動しているような、人間が、世界を捉え、認識する原初的な形式が、現代的な感情や状況のなかで作動する時に、その形式に沿った所作が、人間的な世界に開いた深淵への亀裂(魔)から、身を逸らし、目を逸らすための行為となるのではないか。魔そのものは消えないとしても。
●人間と非人間的なものとの接触によって、人間的なものに亀裂が生じ、そこに深淵が開かれる(魔があらわれる)。その時、その人間の置かれている特異な感情や状況が「結果として」リアルに表現される(感情や状況にリアリティが与えられる)。そして、そこに開かれた深淵に再び蓋をするためには、人間にそなわった原初的な「納得の形式」を作動させて、継続可能な「わたし」がつくり直される必要がある。
『営繕かるかや怪異譚』という連作の一つ一つが示しているのは、そのような筋道であるように思われる。この小説では、リアルな亀裂だけが示されるのではなく、その最低限の解決も示される。ただそれは、解決とは言えないような、「魔」との関係も明確ではない、納得のための最低限の筋道と所作でしかない。しかし、これ以上の解決を示せば、深淵は「謎」へと格下げされた上で「説明」されることになり、怪談としての魔のリアリティと食い違ってしまう、ということなのではないか。