2019-07-13

●身体というのは「喩」のことなのではないだろうか。というか、身体性というのは、「喩」の成立によってもたらされるのではないか。それは、図と地の関係のようなもので、図が成立することではじめて地がもたらされるのと同様に、「喩」が成立することではじめて身体がもたらされる、のではないか。

(なにもない、無限定な空間が、鳥が横切ることで空となる。この時、「空」は「鳥」によってもたらされ、「鳥」は「空」の「喩」となる。)

(ここで「喩」とは、パース的に言えば記号のことになるだろう。ならば、「喩」は、記号と対象と解釈項という三項関係の成立によって生じることになる。そしてこのとき、記号も対象も解釈項も、すべて「わたし(の身体)」ということになる。記号・喩としてのわたしの身体があり、その対象としてのわたしの身体があり、それを解釈する解釈項としてのわたしの身体があって、記号過程の三項関係が成立する時、わたしの身体性たちあがる。)

(だが、「記号としてのわたしの身体」という言い方は結果を先取りしてしまっている。「記号としてのx」があり、「対象としてのy」があり、「解釈項としてのz」があり、それらが重複して、一つの場において記号過程の三項関係としてあらわれる時、その重複によって「わたしの身体」が生じる。)

わたしに可能な身体的技能、たとえば、歩ける、泳げる、自転車に乗れる、ハンマーで釘を打てる、踊れる、等々は、それ自体の実行において必ずしも「喩」を必要としないかもしれない。しかしその行為が意識的になされる時、あるいは、行為する身体が意識される時、意識された「わたしの歩く身体」は、対象としての「わたしの歩く身体」の「喩」となる。

(この時、「喩」としてのわたし歩くの身体は「鳥」であり、対象としてのわたしの歩く身体は「空」であると言える。)