2019-07-11

●『サザエさんうちあけ話』、すごく面白い。長谷川町子の自伝が、絵物語とマンガと絵文字(?)で、断片的に、エッセイ風に語られる。1979年に出た本。

前半の、戦前から戦後すぐくらいまでの話がとにかく面白い(『この世界に片隅に』の元ネタみたいなエピソードも描かれている)。中盤になると、やや中だるみも感じられるが、終盤、二人の姪やデンキ屋のオジさんのエピソードなどで前半に匹敵する活気をとりもどし、そして、認知症になった母のエピソードによる幕切れも味わい深い。

(ちょこちょこと挿入される、犬や猫、ニワトリなど、家の動物たちの話もとてもよい。)

長谷川家はふしぎと女ばかりの家族となる。三姉妹で、父親は(三姉妹の真ん中の)長谷川町子14歳の時に亡くなり、姉の夫は戦死し(夫婦の生活は一週間)、妹の夫も35歳で病死する。そして、妹と妹の夫の間の子供も、二人とも娘だ。母、三姉妹、二人の姪という家族。

長谷川家は、庶民とは言えない。長谷川町子はエリートの娘という感じだろう(その、エリートである父がはやく亡くなってしまうのだが)。母が、破天荒というか、豪胆な人物として描かれているのだが、この浮世離れした豪胆さも、お嬢様的な育ちの良さから来ているのではないかと感じさせる。昭和の初期から(戦中も含め)昭和50年代くらいまでの話が描かれるのに、日本的な因習による束縛をほとんど感じさせないところに(意識的にそういう部分は描かないということもあるだろうけど)、生まれつき「持てる者」がナチュラルにもつリベラルな空気というものがあると感じる(母がキリスト教の信仰をもっているということも大きいのだろう)

《神様を信じて、まっとうに暮らせば、やもめと、みなし児の家の粉は、つきることがない》という聖書の言葉を信じる母は、「良い」と信じることには惜しみなくお金を使うので(たとえば、家に来る大工や植木屋に、京都の良い建物や庭園を見学させるためにお金を出して旅行させたりする)、父が残した《アパートの一、二軒は建つくらいの貯え》をあっさりと使い切ってしまう。しかし結果として聖書の言葉は正しくて、長谷川町子には田河水泡の紹介による仕事が来るようになり、姉は菊池寛に認められて挿絵画家として仕事をするようになる(戦前の話)

そして戦後、地方の新聞に連載していたものを自費出版した『サザエさん』がヒットすることになる。ここで、戦争が終わって再度上京する時に福岡の実家を売ったお金の半分を使って『サザエさん』を出版しなさいと言い出したのも母なのだった。これにより「姉妹社」が生まれる。さらに、本を横とじの型にしたせいで本屋においてもえらずに、1巻がまったく売れないなかで、型が悪いのならばサイズを変えて2巻を出せばいい、お金がないなら借金すればいいと、ごり押しを指示するのも母なのだ。その2巻が売れたことで、遡行的に1巻も売れるようになる。

長谷川家が『サザエさん』によってお金持ちになると、母は今度は《えん日でワタアメ買うみたいに》、ふらりと出かけて「箱根の別荘」を(別荘番の一家つきで)買って帰ってきて、娘たちを驚かせたりする。

●そのような母も晩年は認知症になり、孫たちの名前も、娘の顔も分からなくなり、(この本で書かれている)娘たちとの生活のことも忘れる。そしてただ、《わたくしは父も母も島津はん士の家でして、母は、おヒメさまのおあそび相手に、ごてんにあがったこともありました…》と、自らの父母の出自を語るばかりとなる。このラストで、これまで描かれてきた出来事が記憶から消えてしまうのか、という無常観と同時に、この母の自由さや豪胆さは、やはり、生まれつき「持てる者」のもつ豊かさや矜持からきたものだったのだなあとも思う。