2022/09/12

山本浩貴(いぬのせなか座)による「死の投影者(projector)による国家と死---主観性〉による劇空間ならびに〈信〉の故障をめぐる実験場としてのホラーについて」(ユリイカ20229月号特集「Jホラーの現在」)にとても刺激を受けた。ホラー表現において、複雑なフレーム操作が頻出する必然をとても高い説得力で示している。これを読んで、「幽体離脱の芸術論」のつづきを書くことをきちんと本気で考えなくては、と思った。

『ザ・ミソジニー(高橋洋)はまだ観ていないのだが、ここで見事な記述・分析がなされているので(そしてその内容が、あまりに濃く高橋洋的であるので)、まるで目に見えるかのようで、既にもう何回も観ているような気になってしまった(また、このテキストを読みながら大江健三郎を想起することが多々あった)

以下、自分の理解と忘備のために、引用による論旨の要約を試みる。

霊と死

《霊と呼ばれるものは(…)生を生として成立させているインフラを肉体が自己言及的に記述しようとしたとき生じる効果である。それでいて、霊が自らの死したあと残存する効果として誤認されるとき、死は自らの生の限界も世界の限界も描くことなく、ただ生と世界にともに隣接する自らの行為と知覚へ毎秒殺到し、先導する法、それに沿って上演の行われるところの戯曲として、生と世界を際限なきループ=輪廻転生へと堕落させることになる。だからこそ望まれるのはループの外へ生と世界を投げ出すための術であり、死を生と世界のループを計算する法=戯曲としてではなく、ループに唯一置き去りにされる場として事後的に定義されるところの私によって所持可能なただの距離とするための方法である。》

《霊を表現するとはすなわちループをめぐる自己言及を自らの外に意図的にレイアウトするということであり、それには私と死の定義の確立をめぐる成否の判定が伴うという点でもって、「表現」よりも「実験」こそが霊をめぐる語彙としてより正確とされるだろう。》

国家=(ホラー的)劇空間

《そこではまず、物理法則をはじめとする客観的因果のもとで観測・共有することが困難な対象や出来事が、或る肉体に紐付く私的な表現(個人において観測されたもののあらわれ)として提示される。霊の出現は(…)、原因のうまく特定できない事象を私的表現の結果として処理するよう強いる圧が発生する。次に、それら私的表現物化した対象や出来事が、私的なもののまま、由来を当の肉体を離れた場所に事後的に設定されることで、肉体(の私的表現)は能動性を奪われ、対象や出来事が自己表現する上での媒体の一つへ陥落させられる。つまり(…)肉体(の自己表現)もまた、さらに上位の原因がもたらす呪いの発露でしかないものとして再定位されることになる。》

《呪いの発露をめぐる因果はしかし、物理法則をはじめとする客観的因果に取って代わるというよりは、客観的因果とその発露を相対的な地位へと落とすことで個々の肉体(の私)のスケールを超える。物を放せば落ちるということもまた、重力の(呪われた場所が自身を訪れたものを呪い殺すのと同じくらい)私的な一表現として扱われ、同時にこの私の些末な行為もまた、新たな法を生み出す可能性を与えられる。》

《表現の背後に見られる法、その由来同士が遡られては相互に拮抗し、階級を更新し合い、新たな表現の支持体として再設定され作者に用いられあう、醜く騒がしい霊的国家=劇空間になる。(…)そしてこれは結果的には、あらゆるものを表現物として受け取らざるを得ず、ゆえにありもしない由来を即座に観測可能な情報から捏造することで異種を結合させると同時に自他を差別し自由意志をはく奪する側にまわる傾向にある人間そのものの問題、またそこからの(…)離脱の先で得られるところの、私の私からのほとんど死後めく知覚の質(しかしそこでも依然として残る権力勾配と恐怖の是非)について、ホラーに属そうとする作品群が検討せざるを得ないことを示している。》

霊のprojectorの必要性

《霊の出現はそれを私的に観測する肉体(の所持する媒体)をまずは必要とし、同時にその肉体(の所持する媒体)が出現した霊に呪われている(=自身の外部に由来のある表現の媒体と化している)ことを指し示す。(…)その時点では霊はprojector個人に原因のあるただの妄想・病と区別がつかないだろう。(…)ゆえに霊は(…)自らをprojectorから自律した対象として設定するために、projectorとは別の肉体が「霊を観測する」ことの由来=対象になろうとする。(…)このプロセスは、projectorにとっては(…)それまで自ら立っていた世界の法とともに否定され、それらの外部(としての呪い=霊の表現する法)へ曝されると同時に、projectorにおける能動性、自由意志の剥奪、その先で一律に動員され続ける地点としての死(ただし個としてのそれではなく、際限なき輪廻転生の構成要素としてのそれ)までもが用意されることを意味する。》

「世界」の「呪いのビデオ」化

(…)「シリーズ監視カメラ 古本屋」(『ほんとにあった!呪いのビデオ51』岩澤宏樹、二〇一三)の霊は、古本屋チェーンに設置された二台の監視カメラにそれぞれの角度から撮影されるとき、同じ背中を見せる。通常の物理法則に従えば、異なる位置から同時に同一の肉体を見たとき、見えはそれぞれの位置に依存して別々となるはずだが、霊はそれを逆に利用して、物理法則を無視するのではなく否定することにより、自身を物理法則からも環境からも自律させてしまう。》

《そしてこのとき、二つの映像(二つの視点)の外に立ち、両者を交互に視聴しては一つの経験として束ねている画面の手前側のこの私の身が、その機能において霊に似ていることに気づかざるを得ない。私は複数の矛盾する視点を同一の視覚像において束ねる霊を通じ、自身の視聴経験そのものが備える霊性を知る。霊にとってもはや世界に自身が立つ必要はない。ただ自身のつくる法を上演する肉体らを通して見るだけでいい。世界を見るという経験が霊化する。ここでprojectorと霊のカップリングは本来なら世界(表現内容)にとってあくまで二次的に機能するだけの映像表現上の技法(カットバック、クローズアップ…)を、時空間そのものへと急激に引き上げることになる。》

法の作者として要請される「霊」(世界の「地獄の機械」化)

(POV 呪われたフィルム』(鶴田法男 二〇一一)では、(1)今まで一緒に撮影していたADが突然消え、それと同時に、そのADが「この撮影現場」に向かう途中に事故にあって意識不明で入院していると連絡が入る。また、(2)過去に撮影された「呪いのビデオ」を、それが「撮影された場所」で再生していると、録画ではなくその場所の「現在の中継」となってしまう。そして、それと同時に「霊」が出現する。)

《『リング』なら霊がやはり物理的肉体(に類する重み)を備えテレビ画面から這い出るという形で半ば強引に達成されていた画面内外(フィクションと現実)のあいだの包摂関係の解体は、『POV』では閉鎖的な撮影場所に置かれた複数のカメラと両者のリズムの同期を通じて(「異なるものを撮影していながら同じものを撮影している」というかたちで---いわば「シリーズ監視カメラ 古本屋」の発展形として)ようやく果たされる。世界はあらためて区画整理され、そのモンタージュに合わせた(束ねをめぐる)法を作る者が要請され、霊が出現する。》

《ひとたび新規の法からその作者として将来された霊は、より強固な法を制作し、霊らのヒエラルキーの上位へ自身を推し進めようとする(…)

《霊のprojectorと化した人々の語り=表現を編集し、頑健かつ単一の怪談へと束ね直していくとき、法は局所に適応されるものではなく究極的には万物を計算するものへと近づくことになる。霊と法に対する人の地位はますます低下し、新たなヒエラルキーが固定化し、世界は私的な「呪いのビデオ」を超えて、整頓された《地獄の機械》と化していくだろう。そこでは恐怖をはじめとする人の感情や意識などあくまで二次的なものとなり、ただ法の遂行、作劇に寄与する物質のひとつとして運用される。こうした状態をアントナン・アルトーは「残酷」と、荒川修作+マドリン・ギンズは「天命」と、大林宣彦は「戦争」と、そして高橋洋は「悲劇」と呼んだ。》

法と抵抗

(アルトー)役者らは舞台の上で、法に従い徹底して受動的に行為するほかないが、同時に法の適応前よりその肉体をもつが故に、法に不備なく従い切ることができない。結果、演劇とは、法と舞台の隔たりで苦しむ肉体らを通じて法を捏造し、ひいては自身の肉体の起源をも捏造しようという試みとなる。》

(…)荒川修作+マドリン・ギンズが目指すのは、肉体に思考や行為を強いる法を具体的な問い=装置として人工的に制作可能と捉えたうえで、その改変可能性を探ることだった。思考や行為の発生の有無をめぐる絵画ないし建築物をつくり、それを多数の肉体でもって共同で検分していく先で、「天命」が規定する最も強大な権力であるところの死を無効化する(「反転」させる)方法を設計し、そのもとで新たな文化を樹立する。》

大林宣彦が目指すのも同じく多数の肉体を用いた法の解体だが、重視されるのは肉体間の分身的カップリング=〈同行二人〉モデルである。大林にとって法とは、個々独自の死を奪い、単一の死の上演のもとに肉体らを動員する「戦争」を指す。それへの抵抗として作られる映画は、〈一人複数役〉と〈複数人一役〉をその内部に多重的に走らせることで、自身の肉体の行為に他の肉体の自由意志を発見する〈私から私への死後の視線〉のネットワークを形成し、〈役〉をもたらす戯曲=戦争から自身の「ただの死」の奪取を試みる術としてあった。》

高橋洋がホラーに見る内実と可能性も、これら法をめぐる苦痛と検討のひとつに数えられる。高橋にとってのホラーの核にあるものとは《人間の否定》である。人は《そこではただの物質とみなされる》。駆動するのは《人間の感情》ではなく《非人間の領域》としての《運命》であり《狂気》であり、《自分の外側で働いているある構造、論理》である。(…)そこで人は、自身の知覚した反復を《呪い》と受け止め、その発生源としての論理を遡行的に《認識》する。この認識に基づき世界が「地獄の機械」として捉えられることを、「悲劇」と呼ぶのだった。》

《そしてそこで霊とは「悲劇」をそれたらしめる論理=法の作者にして、法の存在を強制的に肉体に認識させかつ上演(project)させる知覚対象=表現物である。》

肉体そのものの霊化(演技と非演技)

《霊は人との肉体を自身の表現の媒体にするにあたり、(…)肉体そのものの持つ意味を事後的に切り替え肉体そのものが霊(=非人間)であるという状態も招く。》

《そしてこの「肉体の意味の切り替え」をきわめて能動的かつ常識に主題化するためにホラーが多用せざるを得ないのが「演技」というモチーフなのだ。》

(…)『ハロウィン・リポート』(ボビー・ロー 二〇一四)の映像は五人の若者らが各地のおばけ屋敷を回っていくなかで撮影したおばけ屋敷実況動画とそのオフショットで構成されるが、お化け屋敷内で撮影された映像はそれ単体を抜き出せば呪われた廃墟を歩き霊と遭遇する人らを撮影したものと区別がつかない。(…)当然この区分は後半に進むにつれ曖昧となっていく。役者らが演技の主体ではなく実際に霊的な存在(あるいは若者らの把握できない法に従う者)である可能性が徐々に意識されていき、最終的にお化け屋敷の外の世界までもがお化け屋敷の霊に溢れる。》

(…)本作で最も重要なのはその中盤、オフショットの側にも霊が溢れるきっかけとしての、マスクをかぶった子どものような役者が若者らのキャンピングカーに乗り込んでくるシーンである。役者はそれまでの流れで言えば霊を演じているだけでしかないはずだが---当然この映画がフィクションである限りすべては演技のはずなのだが---もしかするとこの役者は霊そのものなのかもしれないという予感に画面全体が緊張している。そして役者の絶叫が響く。》

(…)肉体を霊として見る姿勢=ナラティブがprojectorを準備してさえいれば、肉体の側は能動的に演技を為すことなど不要なのだ。》

《このことはまた、霊がprojectorにもたらす最大の情動とされる恐怖が、一方的な差別の発露でしかない可能性も示唆することになる。》

差別・性差

《なるほど人は、眼の前の肉体・事物が自身の習慣として所持している論理に回収しきれない運動を為したとき、そこに新たな論理の発現を見出さずにいられない。(…)ただそこで問題は、そうした新たな論理の発露の観測において、観測者側の一方的な判断でしかない可能性が(定義上)取り除けないということである。自らの抱える法のもとに相手の行動を位置付けられないにも拘わらず新たな法を観測しもするという事態の背景には、第一に行動と法のあいだの(自由意志などノイズを含まない)一致が、第二に観測者にも容易に知覚可能な外形的情報(特に人種や容姿)から新規の法が遡行的に推測可能であるという認識がある。》

《《血は物質的に人間の外形を決定し、それへのあこがれと恐怖が人間の差別を発動する。世界は物質の連鎖であり、あいまいな観念が入り込む余地はない(…) (大和屋竺の世界認識」高橋洋)》。これはすなわち、自身が外的法に従属せざるを得ないという事態とは異なる、他者によって自由意志を無視され自らの行為をありもしない物質的法に由来するものだと捏造されることで生じる恐怖を別途用意することになるだろう。》

《その代表が性差である。女性の肉体をループ上演の場として特権的に描く作品も、霊が女性の肉体でもって演じられる作品も、ホラーには数限りない。それらをあえて圧縮したかのような構造を持つのが、高橋が脚本を務めた『呪怨 呪いの家』(三宅唱 二〇二〇)だった。そこでは本来ならば具体的な社会構造に原因が求められるべき性差にまつわる事態が、「悲劇」的法をその由来とすることで温存ないし増幅される。(…)この作品の性差をめぐる設定やギミックを、さらに反復・圧縮しつつ脱臼させ、内破まで図ったのが『ザ・ミソジニー(高橋洋 二〇二二)である。》

『ザ・ミソジニー

《『ザ・ミソジニー』における最大の法はやはり「女性であること」に基づいて制作され---「女はみんな、地獄に堕ちるって」「うん、女は生まれた時からそう決まっている」---非女性も含めてあらゆる肉体は、その法のもとで(時に複数の)役〉を演じ(つつ束ね)る場として機能させられる。(…)しかし『ザ・ミソジニー』では、第一に人らをprojectorとする呪いそのものを時空間にprojectする主体の座を男性ではなく女性に与え---消失する親もそれを見る子も『呪怨 呪いの家』では男性だったが『ザ・ミソジニー』では女性となる---第二に劇作や上演といったホラーの根幹を形作るギミックをそのままモチーフとして扱うことで、「女性であること」に基づく法の由来を、それが上演される世界の外へ据え置くのでも、また特定の非人間=霊に紐付けるのでもなく、あくまで肉体の演じる生きた人間の〈役〉自身に担わせていることが重要である。》

《主に三人という限られた役者らの肉体において、制作者を担いうる〈役〉を生起させては画面内を統率する法の質を大きく切り替え、すぐに次の製作者=〈役〉と法を立ち上げていく。これは現実とされるレベルを形成する法がそのなかで上演する虚構の法に由来を奪われ、さらにそのなかで上演される別の虚構によってまた根拠づけられていくプロセスを表現しもするだろう。(…)法らが散逸せず拮抗し合い、その拮抗でもって「女性であること」に基づく特権的な法が、無限遠の幅を持つ地獄めくループではなく具体的かつ閉鎖的な時空間において演じられる〈役〉+法のあいだの限られた円環としていったん構造化が図られること、そして何より「女性であること」に基づく特権的な法の上演がいち劇中劇として閉じられ、そこからの距離をとる〈役〉の発生可能性が垣間見えることである。》

(…)ナオミを中心に始まった本作は多大なる迂回を経て再びナオミを中心に終わる。ラストシーンのナオミは自身の過去の記憶としての「母」の失踪を再度目撃し、とはいえそこに没入するのではなく距離を置く者の顔をする。》

《ミズキとのあいだで「娘」の〈役〉を共有し、その先で「母」の〈役〉ともまた近接しながら、男性としての子(嫉妬を生む恋愛対象にして不在の、あるいは母を殺したかもしれない父でもあるそれ)から殺されず、また殺しもせずに逃れ、なにより自身に向けて到来してくる「女性であること」に基づく特権的な法のもとでの強制的上演からも距離をおきつつそことのあいだで(役〉の共有を回路として劇空間の内部へと)コミュニケートする、自由意志を備えた制作者の肉体である。》

「信」の故障

(『ザ・ミソジニー』にみられるような自由意志獲得の過程は)「特定の法に基づき為される上演行為とそれを実現する幾つかの肉体」を不可欠とする以上、肉体間にあるのは一挙の対等さではなく、劇作家と役者で形作られた権力勾配をめぐる小刻みな交代劇であり、それは特定の法の特権化を防止しつつも、ささやかな集団の運営する区画のなかでのヒエラルキーの固定化の危険性を残してはいくだろう(…)。》

《つまり、国家は(微小化・分散化しつつ)残る。そこで自身の遵守する法とは別の法を前にしたときの恐怖、ないし遡行的に発見される差別は、消えるのではなくむしろ経るべき手続きとして率先して多用され、方々に蔓延するだろう。(…)そこで恐怖は依然として、生きた人間によって閉鎖的空間(からの引き剥がし=死)を表現する限り続くのである。》

(…)目の前の情報を表現と呼ばれるものとして人が知覚するとは、それを為した何かをprojectすることを意味し、それ抜きには時空間も私という位置も形成し得ない。これが人が抱える最も重い呪いであり、差別や恐怖の由来であり、国家の論理である。本稿が検討してきたこれを、一方で私は人ではなく事物が帯びる肉体への傾向・質として〈主観性(Subjectivity)と、またそれに還元しきれない(しかし或る表現を拘束しつつその表現足らしめたとされる)法則や型を〈物性(Objectivity)と、今まで定義してきた。人は自他問わず自由意志も霊魂も表現そのものとしては受け取れず、ただ〈物性〉に基づき出力された変化を〈主観性〉のもとで誤認するだけだ。そこでの誤認的関係=〈信(Belief)を様々に変奏し、多少なりとも改善していくために、人が費やしてきた多くの議論や表現があった。》

(…)自身の肉体が恐怖を感じたかどうかを価値基準にして作品を作り、論じることは、ともすれば社会由来の差別を自身の肉体においてそのまま上演し、コンテンツの価値、さらには世界の法として流通させ、価値基準そのものを固定化することに繋がりかねない。それでも自身の肉体でもって自己言及的に語らざるを得ない--- projectを自らに由来するものとして取り扱わざるを得ない---領域は、自身の肉体が特定の国家()に紐づく土地・文化圏で生育した、人という他の生物と異なる傾向を多少なりとも持つ種である限り残る。(…)ホラーというジャンルにおいて表現するとは、こうした私における(さらには国家における)恐怖の発動条件を制作の論理として組み込み検討せざるを得ないことを意味し、それゆえ他のジャンルより遥かに無意識的に得られる私と国家のデバックの可能性(その蓄積へのアクセス可能性)こそが、ホラーで表現すること/ホラーを論じることの、第一の危うさにして価値だと言える。》

《ではそこでバグとはどのようなものとして現れるのか。ホラーにおける恐怖は「表現がそこにある」という見做しが特定の法の制作者の像を結ばないとき、最大限増幅されたかたちで生じるものである。言い換えればそこには、「これは表現である(=ここには制作者がいる)」という命令としての〈主観性〉が、表現を足らしめたところの法則や型としての〈物性〉とのあいだで、単一の制作者の像のもとでの収束を阻まれながら過剰に増幅していった状態がある。すなわち両者の誤認関係としての〈信〉をめぐる故障であり、デバックの可能性もまたここに集中する。》

(…)「クニコ(『死画像』)における「呪いのビデオ」を構成する十数分のうちその大半は、VHS特有のありふれたノイズしか映っていなかった。ただそれだけのものが、肉体に強烈な負荷をかけ、生や歴史を事後的に更新する法とともに自身を表現として受け止めるように強いてくる。あるいはそのような負荷が映像内部に存在していると感じられたとき、既にして〈信〉の故障、〈主観性〉の暴走というかたちで呪いは起動しているのである。或る表現がそこにはある。しかもそれはこちらにとって記述不可能である以上にこちらを一方的に記述し尽くそうとしてくる強固な法の産出機械である。》

音・言語・恐怖・表現・死

(…)こうしたシステムをさらに極限まで圧縮するときに撮られる形式が「音」であることに、私は疑いがない。》

《人にとって音は、自らを発した者とその周辺の環境の表現として自身を受け取るよう肉体に強いる運動としてある。(…)声でなくともあらゆる音はそれを受け取る肉体が一定の構造(特に頭蓋の横幅)を持ちそこに馴致させられている限り、肉体に音の性質と位置、周囲の空間や広さやレイアウトなどを伝えるだろう。さらにそれが映像表現の構成要素として用いられると、音は映像との結合関係を〈主観性〉の成否のもとで多様に演じ始める。》

(…)或る映像に或る音が選ばれ併走させられるその必然性は、作品を為す膨大な知覚情報を抱え込み物語や出来事を私的に表現したものと見做すprojectorの立ち上げに、ほぼ直結する。projectorは映像内部に捉えられる特定の生物(多くの場合、人の体に似たそれ)を、或る私がどのような世界(五感が処理しうるとされる都度都度の周囲だけでなく記憶や予期を経由し肉体に作用しうる遠く離れた時空間も含むそれ)をどのように感知し応答しているか、その内的(因果)関係を仮構し表現する上での宿として用いることで画面内に出現するが、そこで音は、宿となる肉体がひとたび知覚や発音、行為や表情などで応じるそぶりを見せれば(同期し呼応したと鑑賞者において見做せたならば)すぐさまその肉体に宿り、画面内部の表出する時空間の中に自らの場を確保することで、宿り先の肉体をprojectorの座にまで引き上げ、自らの表出する情動や思考をprojector自身のそれとして表現させるとともに、反復可能な必然の法として画面を制御する機能を果たすことになる。》

(…)それはprojectorが霊をprojectするときに用いていた媒介の最小構成単位であり---つまり霊とprojector の間にあるのは光ではなく音であった---高橋洋が指摘するように、この世界がこの世界であること(あるいは私が私であること)をめぐる法の存在を極めて純粋に肉体に向けて表出する際に露わとなる形式でもあるからだ。》

《こうして私は言語表現そのものに恐怖を聞く。というより主に映像表現として為されるホラーが言語表現全般と否応なく接続せざるを得ない地点に、表現と呼ばれるものの端緒があるという考え方に賭けている。何らかの法に従い出力された情報が先んじて与えられ、同時にそれが法を超えて(自由意志を備える肉体の抱える、より普遍的な法に基づく)ひとつの表現と見做されるとき、そこには恐怖の質感が、「表現を見出すこと」そのものとして発見される。もちろんそれは私自身に向けても回帰するだろう。自由意志と法の掛け合わされていく先で出現するのが表現と呼ばれる営為であり、それが多数の肉体を束ねつつ個々の肉体にもたらすものが「私が私であること」を支える〈信〉、そしてその適応範囲外周に見られる断絶の線(バグの発生領域をめぐる指示)としての死である。》