2020-09-06

●以下は、「ユリイカ」の大林宣彦特集に載っている、山本浩貴(いぬのせなか座)「ただの死がもたらす蘇生した〈軋み〉」から、『転校生 さよなら あなた』について書かれた部分の引用。この部分を読みながら、『転校生 さよなら あなた』という映画の異様さを、改めて強く感じていた。

(『海辺の映画館 キネマの玉手箱』は、まだ観られていない。)

《「一美」は「まるで一美の物語のよう」な歌を、自身だけでは歌えなかった。それを歌うのは、「一夫」という、別の身体に由来する〈役〉の宿った状態の「一美」の肉体です。「私が私であること」の〈表現〉としてある「物語」と「歌」は、「一夫」と「一美」の肉体と〈役〉が交差したからこそ、成立する。「一美」の肉体が「一夫」を演じることで「一美」自身の必然性を見出す、と考えれば、すでに整理した演技を通じての〈発見〉のプロセスに近いように感じられますが、ただここでは、「一美」という〈役〉が別の場所に同時に存在し、演じられているということが重要でしょう。「一美」として生き、「一美」を歌い、「一美」の肉体の抱える〈戯曲〉=〈形式〉に従って死に至ろうとする者を、「一美」の〈役〉を演じる者がそばで見ている。ここには、ある肉体が別の肉体由来の〈役〉を演じることにより起こる〈発見〉を、そもそもの肉体由来の〈役〉が外から幽体離脱的に見つめるという歪なかたちで、観客の視線も取り込まれているのです。》

《他者の肉体に由来する〈役〉を自身の抱える〈戯曲〉=〈形式〉を表すものとして遂行すること、それだけでなくその遂行と同じものを別の肉体から、他者として見つめていた瞬間も記憶していること。そのような、自身が別の者に由来する〈役〉を演じることとそれを別の者が演じる自身の〈役〉から見つめることが同時に成立してしまう幽体離脱的な---というより憑依と自己変革が同時に生じる、非霊的な、極めて肉体的な---状態こそが、本作の立ち上げる〈同行二人〉のモデルです》。

《それは、〈戯曲〉=〈形式〉から或る肉体への一方的な支配ではなく、個々の肉体に由来する幾つかの〈戯曲〉=〈形式〉のあいだの交換関係のもとに新たに生じる或る肉体の行為がその肉体由来の〈戯曲〉=〈形式〉そのものとして外から自覚され、結果、〈戯曲〉=〈形式〉自体が更新されるとともに、自由意志が別の肉体から当事者的に測定され直されていくようなあり方として考えられます。》

《自らの肉体が強烈に意識されると同時にその外からの視線が他者の肉体を借りて到来しつづけるという意味では、それは自らの肉体の死を許容すると同時に死後からの視線をも自ら演じうる状態になる、とも言えるでしょう》。