●これはぼくの実感なのだけど、おそらく人は強すぎる快楽と暴力への恐怖には勝つことが出来ない。勝つことができないというのは、それによっていとも簡単に支配されてしまうということだ。そして、それに支配されるともう理性的な判断ができなくなる。これは、人間(動物)の脳の根本的な欠陥と言ってもいいのではないか。
(たとえばテロリストはそれをよく知っていて、それによって人を支配しようとする。)
これが「人の脳」の根本的な欠陥であるとすれば、それを克服するのは「人の脳への知識(による、脳への外的介入)」以外にないのではないかという気もする。勿論、なかにはそのような支配に決して屈することのない立派な精神をもつ人も存在する。でも、すべての人に快楽や暴力に屈するなと言っても、それは無理なことだと思う。
強すぎる快楽と暴力への恐怖は、「フィクション」の力が及ばない圏域にあるのではないか。
で、ケンダル・ウォルトン「フィクションを怖がる」(『分析美学基本論文集』)の致命的にダメなところは、フィクションについて考える時に「恐怖」を例に挙げていることなのではないか。例えば、ごっこ上でトムとベッキーが洞窟内で死んでしまうのではないかと心配すること(「トム・ソーヤーの冒険」)と、フィクションから恐怖を感じてすくみ上ってしまうこととは、別のことなのではないか。本気で恐怖を感じるとフィクションが「引いて」しまう。恐怖とは、ごっこ遊びのリミットにあらわれるものというか、ごっこ遊びのなかの現実的なものというか、ごっこ遊びのなかにあってごっこ遊び的空間の成立を破ってしまいかねないもの、なのでないだろうか。
(あるいは逆から、ごっこ遊びのリミットにあって、ごっこ遊び空間そのものの成立をネガティブに支えるもの、とも言えるかも。死への恐怖がある種のフィクションを支える、というような。)
高橋洋は「恐怖」と「怪奇」とは違うという言い方をする。これはおそらく、「怪奇」はごっこ遊びの空間のなかで成立するものだけど、「恐怖」というのは、ごっこ遊びの空間が破綻するところに現れるものだ、ということなのではないか。
(「準-恐怖」という概念は、まさにウォルトンの論文を破綻させてしまいかねないくらい危うい概念だ。)
(いや、そうではなくて、リアルな恐怖と、ごっこ的な準-恐怖とが、事実上区別がつかない---同じ平面の裏と表である---ということによって、現実とごっこ的空間がつながっている、と同時に、準-恐怖≒恐怖がごっこ的空間の縁としてフレーム化の作用をしていると考えれば、「フィクションにおける恐怖」を取り上げたことはまさに適切であった、ということになるのか?)
(例えば、絶叫マシンによる恐怖は、現実=恐怖なのか、フィクション=準-恐怖なのか。人は、絶叫マシンでは死ぬことは---ほぼ---ないと知っているので、まさにウォルトンの言うフィクション=準-恐怖で、それを楽しんでいる。準-恐怖の説明としては---自動的な反応だという意味でも---映画で緑のスライム状の怪物が襲ってくるというウォルトンのだす例よりこちらの方が適切なのだと思う。しかしだとすれば、準-恐怖は---高橋洋的な意味で---ホラー映画から恐怖を感じるという経験とはずいぶん違うものになってしまう。)
(絶叫マシンの恐怖は、自分自身の現実的身体をフィクション的に再フレーム化しているので、即物的、直接的、生理的ではあるが遊戯性が強い。ホラー映画の恐怖は、ごっこ的空間によって発せられるものだが、経験としてはより現実的で直接的である---フィクション的フレーム化がなされていない---のではないか。)
(ただ、絶叫マシンの場合は、フィクションであると同時にアディクションでもあるという要素が強くなる。アディクションはとても強い「現実」であり、フィクションの機能である遊戯性、実験性、可動性と対立する。VRなど、現代のメディア的環境下では、フィクションのアディクション化の傾向は避けられないものとしてある。フィクションのもつ「リアリティ」と、アディクションの「現実性」とを分けて考えることは可能なのだろうか。)
(追記。ここで「現実」とは、避けがたく強要されるもの、影響が無視できないくらい大きいもの、恣意的に変更できないもの、のことを指す。反対に「フィクション」とは、選択可能で、影響をフレームで限定することが出来、設定が恣意的で可動的であるもの、のこと。)
(ぼくはホラー映画は好きだけど、即物的な暴力描写や、強い身体的苦痛を想起させるような残酷描写には耐えられない---ぼくにとって「ごっこ的空間」としてはたちあがらない---のだけど、こういうもののもつ直接性と、ホラー映画にあらわれる恐怖の直接性とは---あきらかに違うとぼくには思われるのだが---どう違うのだろうか。ここにも一種のアディクション性があるのだろうか。)
(ということで、最初の問い、脳は強すぎる快楽と暴力への恐怖に勝てない、へ戻る。)
●それでもウォルトンの論文が面白いのは、人は、フィクションに没入するのではなく、自分をフィクションの領域にまで拡張して、フィクションのなかで自分自身を演じる(個人的なフィクションを生きる=遊ぶ)のだ、と考えるところだ。これはまるで、リヴェットの映画みたいではないか。