2021-03-18

●(一昨日の日記のつづき)下の動画で菊地成孔は、二つのタイムラインが同時に進行するアフリカ的なポリリズムのレクチャーを行っている。一つの小節を十二に分割するパルスがあるとして、それを、キクチ、キクチ、キクチ、キクチという刻み方で四拍として感じるタイムラインと、ナルヨシ、ナルヨシ、ナルヨシという刻み方で三拍として感じるタイムラインを同時に感じること。たとえば、踊りながら、下半身で四拍を、上半身で三拍を刻む、などして。

とはいえ、世界中で流通しているポピュラー音楽のほとんどからは、アフリカ的ポリリズムが聞こえてくることはないという。しかし、四拍と三拍の二つのタイムラインが同時に進行するアフリカ的ポリリズムの感覚を体得すれば、実際にリズム楽器がポリリズムを刻んではいない演奏から、聴き手の身体的な関与によってポリリズムを聞き取ることができるようになるという。これによって、(同じ演奏を聴いたとしても)音楽の聞こえ方がまるで変わってくる、と。

ここで、演奏をごっこ遊びにおける小道具とみなし、演奏によってつくりだされる(だけでなく、演奏から聴取される)「リズム(ループする時間とその分割法)」を、ごっこ的な真理だと考えることができるのではないか。つまりこれは、同じ「ごっこ遊びの小道具」から、受け手の積極的な関与によって別の側面を引き出すことができる、ということの例ではないだろうか。

菊地成孔 "ビュロー菊地チャンネル「モダンポリリズム講義 第11回モダンポリリズム 第11回

https://www.youtube.com/watch?v=SsUZErmf0Xw

●改めて「フィクションを怖がる」(ケンダル・ウォルトン 森功次・訳)を読み返したのだが、書かれていることの半分以上に同意(納得)できなかった。なにより、挙げている具体例が適切とは思えない。しかし、それでもなお、ここにはとても重要なことが書かれていると思う。

《わたしの理論によれば、われわれが「距離の縮減」を達成するのは、虚構をわれわれのレベルに持ち上げることによってではなく、われわれが虚構のレベルに降りていくことによってである(より正確にいえば、われわれは虚構のレベルにまで自分自身を拡張する(extend)。というのも、われわれは実在するということが虚構的になるときでも、われわれは現実に存在することを止めないからである)。ごっこ上でわれわれは、ハック・フィンがミシシッピ川を下ったということを信じているし、知っている。そしてごっこ上でわれわれは、彼や彼の冒険について様々に感じ、様々な態度をとる。自分をどうにか騙して虚構を現実と思わせるというよりは、われわれ自身が虚構的になるのである。こうしてわれわれは結局、虚構と「同じレベル」に立つ。そしてわれわれのそこへの出現(presence)は、わたしが先に記述したような尋常ならざるリアルさで果たされる。以上のような考え方によって、われわれは自分自身に明らかに偽の信念を帰属することなく、虚構に対してわれわれがもつ近さの感覚を理解できるようになる。》

《(…)泥でパイを作るままごと遊びに参加する者は、泥の塊がみかん箱の中にあるときはいつでも、オーブンの中にパイがあるというのが「そのごっこ遊びにおいて真」である---すなわち、それは虚構的である---、という原則を受け入れようとするだろう。その虚構的真理は、ごっこ的真理である。あるごっこ遊び内で有効な原則とは、もちろん、まさにそのゲームの参加者が有効と認め、受け入れ、理解している原則である。》

《オーブンの中にパイがあるというのは、誰もそのように想像していなくても、ごっこ的でありうる。もしそのみかん箱の中に誰も気づいていない泥の塊があっても、それはごっこ的であるだろう(子供は、後でその泥の塊を発見したときに、「オーブンの中にパイがずっとあったんだ、でも知らなかったよ」と言うかもしれない)。》

《あるゲームにおいて有効となっているごっこの諸原則は、明示的に定式化されている必要はないし、意識的に採用されていなくてもよい。子供たちが泥をパイ「である」とすることに同意するとき、彼らは実際には、パイのごっこ上の性質と泥の性質とを結びつける、明文化されないとても多くの原則を打ち立てているのだ。泥の塊のサイズがごっこ上のパイの大きさ・形を決定するということは、暗黙のうちに理解されている。たとえば、泥の塊のサイズが手のひらのサイズであれば、ごっこの中でのパイもその大きさになるということ、(…)こうしたことが暗黙のうちに理解されているのである(…)。》

《あるごっこ遊びとそれを構成する原則は、公に共有される必要はない。人は、他の誰も認識していない原則を採用しながら、自分の個人的な遊びを作ることができる。そして個人的なごっこ遊びを構成するその原則のうち、少なくともいくつかは暗黙裡のものでもありうる。つまりそのとき彼は、ただその原則を当然なこととして、とくに意識しないでいる。》

《ある種の人形を見る者は、その人形が、ごっこ上で金髪の少女がいるという真理を引き起こしているのを認めるだろう。その人形が単に一定の距離から観察されるべき一体の彫像として見られるとき、それがもたらすごっこ的真理はこのようなものである。だが、その人形で遊んでいる子供は、より個人的なごっこ遊びをしている。その遊びの中では、その子は自らを演じる役者であり、人形は一種の小道具としての機能を果たしている。子供が人形を用いて行っていることは、ごっこ的真理(たとえば、ごっこ上でその子は街へお出かけするために少女に服を着せているという真理)を引き起こす。》

《スライムが向かってきていると主張するふりをすることと、ごっこ上でスライムが迫ってきていると実際に主張することとは、両立しないわけではない。チャールズはその二つを同時に行いうる》。

●ここに書かれていることを、次のように言い換えることができるのではないか。フィクションを立ち上げるということは、見立て(比喩)を用いて現実に似たものを表現するということではなく、我々が、自分の身体を「見立て-比喩が真である(見立て-比喩が現実である)」世界にまで拡張させる、ということだ、と。