●ずいぶんと久しぶりに『北の橋』(リヴェット)をDVDで観た(VHSのソフトは持っているのだけど…)。『スーサイドサイドカー』(鎮西尚一)を観たら『北の橋』が観たくてたまらなくなって、そのためにTSUTAYA DISCASに入会した。
(日記を検索したら、前に観たのは2006年の11月だった。)
リヴェットはなんでこんなに面白いのか。というか、ぼくはなぜ、こんなにもリヴェットを面白いと思ってしまうのか。
今回『北の橋』を観ていて『電脳コイル』を思い出した。リヴェットは、現実のパリを遊戯の舞台として見立てられたパリとして使う。それは、現実のパリを仮想世界へと変質させ、あるいはごっこ遊びの世界へと変質させる。ごっこ遊びのなかで、木の切り株を熊と見立てたり、泥の塊を団子と見立てたりするように、パリをパリであるままに抽象的空間として、陰謀が巡らされていると見立てられた、ごっこ遊びの舞台とする。つまり、現実のパリの上に虚構のパリが重なる。まるで、電脳メガネによって現実の大黒市と電脳の大黒市とがぴったりと重なりながら多重化するように、現実のパリはそのまま、紋切り型の犯罪ストーリーや双六の盤と重ね合わせられる。
(見立てられた虚構は現実の予測困難さを利用する。切り株を熊と見立てた場合、予想外の場所にある切り株の発見は、虚構上の熊の発見となる。)
遊戯は、世界や行為から一回性による切実さを失わせる。遊戯の特徴は反復可能性であり、何度もやり直せる。つまり遊戯とは、複数の並行世界を出現させ、それら複数の世界に同時に存在しようとすることでもある。演技され、撮影され、編集されることにより、世界が遊戯のための場となり、並行世界が出現する。それは、一つの行為、一つの出来事、一つの場面から重みや切実性を失わせるが、複数繰り返されること、あるいは繰り返すことが可能だという事実は、それらを通じて「真似られたもの」や「試されるもの」や「練り上げられるもの」という、一回限りの切迫性とは異なる性質を前景化する。過去に誰かがやったこと真似して繰り返すことと、その都度違うやり方でやってみることが、遊戯のなかでは共存する。その試行錯誤は、複数の並行世界を「練り上げ」という形で近接させ、共振させ、相互作用させもするだろう。
この映画が、ピュル・オジェが撃たれるところで終ってしまったら、まさに紋切り型を遊戯的に反復しただけという事になってしまったかもしれない(ありがちなヌーヴェルヴァーグ風)。しかしこの映画は、ジャン=フランソワ・ステヴナン(おっさん)がパスカル・オジェ(若い娘)に空手の型を教えるところで終る。この映画そのものが、空手の型のようにしてあると言える。しかしそれは、名人による見本となる型というより、練習中、修行中である人の型に近い。型は繰り返し行為される。型である限り、失敗してもダメージはない。ジャン=フランソワ・ステヴナンは言う。型とは架空の敵と戦うものだ、しかし本気でやらなければ駄目だ、と。しかしこの「本気」とは、現実的な敵のいる、一回限りの勝負としての「実戦」の本気とは異なるものであるはずだ。型とは、切迫性のない反復ではあるが、ある意味では実践以上に「凝縮されたもの」として成立している。多様な可能性に開かれていると同時に多くの経験が凝縮されたものでもある。実戦では可能ではない、型だからこそ可能であるような本気が、そこにはあるはずなのだ。