2024/06/10

⚫︎『デュエル』(ジャック・リヴェット)をDVDで。この映画はYouTubeにアップされているのを自動翻訳字幕で以前に観たことがある。自動翻訳の字幕ではイマイチ何を言っているのかが明確ではなく、途中から筋を追うのは諦めて画面だけを観ていたのだが、一応、最後までは観ている。だから、ああ、この場面はこういうことだったのか、みたいな感じで観た。お話の詳細が分かったから特にどうだという映画でもないし、字幕なしでも大体の感じはわかるのだけど、ただ画面だけを観ているよりは、細かいところまでわかった方が集中しやすくはあった。

上映時間が13時間近くある『アウト・ワン』(字幕なしでネットで途中まで観ている)が71年で、次が74年の『セリーヌとジュリーは舟でゆく』で、その次がこの『デュエル』で76年。『ノロワ』(76年)、『メリー・ゴー・ラウンド』(81年)はまだ観ていないが、その次が『北の橋』(81年)。70年代のリヴェットの映画の、カテゴリー化できないなんとも微妙なありようは、改めて驚くべきことだと思う。ゴダールだったら、もっとわかりやすく前衛的であり、わかりやすく政治的で、わかりやすく毀誉褒貶あるわけだが、リヴェットは、間違いなく過激で前人未到なことをやっているのだが、しかし、お話としては穏当なファンタジーであり、題材も(当時として)現代的ではなく、非政治的であり、遊戯的で虚構的だ。そこに、例えばデヴィッド・リンチにあるような強い切迫性やオブセッション性もなく、常にどこか余裕げで、あくまで遊戯であり、虚構の演技であることが強調されている。毀誉褒貶が激しいというような方向の過激さとは根本的に異なる、なんとなく(シリアス・ガチ勢から)「舐められがち」な作風を堂々貫いているという過激さだ。

我々は、現在の地点から、もはや映画史上の作家という評価のあるリヴェットの作品を観ているわけだが、当然だが、70年代のリヴェットは巨匠という安定した地位を得ているわけではなく、どのように評価されるか定かではない不安定な状態で、その都度、一作、一作、作品を作って、発表している。ある意味では間違いなく過激だが、しかし別の意味では穏当であるように見えて、言い換えれば、形式的には過激だが内容的には穏当にも見えてしまう、どの引き出しに仕舞えばいいのかよくわからないような奇妙な作品、そして、間違いなく多くの観客は得られない作品を、日和ることなく(わかりやすい前衛性、わかりやすい現在性におもねることなく)作り続けられた70年代のリヴェットは改めてすごいな、と思う。

我々は既に「リヴェットの映画」が存在するところからリヴェットの映画を観ているのだが、当然だが、リヴェット以前にリヴェットのスタイルは存在しないので、リアルタイムで、予備知識なしでいきなりこれらの作品と出会い頭にぶつかったとき、「…、んっ ? 」と戸惑うしかないだろう。この「戸惑い」を生産するものこそが新しさであり過激さなのだ。

そして、こんなに、どう捉えたら良いか掴みづらい作品(そして、確実に「儲からない」作品)なのに、協力してくれる俳優やスタッフがずっといて、また、お金を出してくれる人がいつづけたというのも、とんでもなく稀有なことではないかと思う。映画作家になる前に、批評家として尊敬され、信頼を得ていたということはあるのだろうが。

(はじめてリヴェットという名前を知った80年代はじめ、もちろん一本たりとも作品を観ることはできておらず、煽るような言説と粗い画像だけがあり、ただ幻想ばかりが膨らんでいくのだが、その時期にリヴェットは、呪われた作家の中でも最も呪われた作家であるみたいな言われ方をしていた。しかし、呪われているどころか、順調に、コンスタントに映画を撮り続けられていたのではないか。)