●昨日、早稲田まで行く電車のなかで西川アサキさんの未発表のテキスト(近いうちに「現代思想」に掲載される予定のもの)を読んでいた。まだ発表されていないものなので具体的な内容については書かないけど、読んでいて、これが日本語で書かれているのは勿体ないのではないかと思った。チャ―マーズとかが読んだら普通にびっくりするんじゃないかという気がするのだけど、どうなのだろうか。
(分析哲学系の「心の哲学」の文脈に一応のっかりつつ、その議論が、人工知能脳科学、物理学などの成果や数理的なモデル化と接続され得るようなパースペクティブの構築を探ってゆき、しかし、科学や数理モデルで追い込んで行くのはそれによってでは「解決できないもの」の在り処をできるかぎり正確に探り当てるため、という感じになっていて、それらは非常に壮大で抽象化された思考実験へと流れ込んで行く。そう長くはない論考のなかで態度が何重にも捻じれているところ、科学や数理モデルが具体的に検討されながら、それが思弁的思考実験の導出や制限のために用いられているところ――つまり、科学ではなく目指されるのは哲学であり、物理は哲学を制約する条件としてあるようにみえるところ――が、西川さんの独自性であると同時に、分かりづらさと言うか、伝わりづらさになっているのかもしれないと思った。)
(西川さんはよく「この概念には中味がないので、具体的な中味を考えてみた」というような言い方をする。専門家ではないのであてずっぽうだが、通常「哲学」では、概念の「中味」を決定するのは哲学史的な文脈であり、諸概念の配置であるように思われる。そして「哲学」はその文脈の書き換えを延々とやっているようにみえる。しかし西川さんは、具体的なシミュレーションや数理的モデルをつくることで概念に具体性と制約とを与え、それを検討することで思考しようとするようにみえる。このスタイルの違いは、大きいよう思われる。)