⚫︎書くリズムと読むリズムは違うなあと思う。ぼくは、文章を書くときにやたらと読点を入れがちがだ、読み返した時にそのほとんどを消してしまう。ならばはじめから打たなければいいのにとも思うが、そうもいかないようだ。
⚫︎Gemini 2.5 proの、あまりの要約能力の高さにビビる。こんなにも明快に要約できるのか。以下のテキスト(The Missing Pieces of Derrida's Voice and Phenomenon)は、グレアム・ハーマンによるデリダ批判なのだが、これを読むと(要約であっても)、ハーマンの哲学がなぜ「オブジェクト指向」である必要があるのかという、その根本のモチーフがよくわかるように思う。
(これは我流に寄せすぎた解釈だとは思うが、ハーマンのオブジェクトとは、ぼくにとっては「地(図 / 地)」の問題に近いのだな、と思う。四方対象とはつまり、図の図(SQ)、図の地(SO)、地の図(RQ)、地の地(RO)、ということなのだな、と。)
(ただ、ハーマンの言い方だと、オブジェクトのフラクタル性がうまく言えないというか、言っているのだけどちゃんと伝わらない、みたいな感じがある。ハーマンはいろんなところで、感覚的なレベルで関係が成立した途端に既に実在的なレベルでオブジェクトが生成されていると言っている。ただしそのオブジェクトは一瞬で消えるかも知れず「長く安定して続く」かどうかはまた別の話だが。そうであるから、あるオブジェクトは常に他のオブジェクトの「部分」であり、同時に、あるオブジェクトの内部には無数のオブジェクトが内包されている。オブジェクトは無限に入れ子的に階層化されているが、そのことと、各々のオブジェクトの絶対的な自律性・退隠性とが両立している。)
・The Missing Pieces of Derrida's Voice and Phenomenon
https://eidos.uw.edu.pl/files/pdf/eidos/2022-02/eidos_20_harman.pdf
要約:グレアム・ハーマン「デリダの『声と現象』における見過ごされた断片たち」
本稿は、現代思想家グレアム・ハーマンによる、ジャック・デリダの初期の重要著作『声と現象』の批判的な再検討である。ハーマンは、デリダのフッサール現象学に対する批判が、西洋哲学の伝統に深く根差した「現前の形而上学」を乗り越えようとする点で、師であるマルティン・ハイデガーの試みを継承しつつも、よりラディカルな「自己同一性」そのものの批判へと向かう点で、ハイデガーを超えて(しかし不当に)進んでしまったと論じる。本稿は、ハーマンの緻密な読解に沿って、まずデリダによる現前批判の画期的な内容を整理し、次いで、そのラディカリズムが故にデリダが見過ごしてしまったフッサール哲学の核心的な革新や、ハイデガー的な「不在」の哲学が持つ豊かな可能性といった「見過ごされた断片」をいかにして見失ったかを明らかにする。
デリダの『声と現象』の中心テーマは、プラトン以来の西洋哲学が伝統的に「現前(presence)」―思考に対して現実が直接的かつ完全に現れること―を真理の絶対的な基準として特権化してきたという、根源的な診断にある。その具体的な分析対象として、デリダはエトムント・フッサールの『論理学研究』における「表現(Ausdruck)」と「指示(Indikation)」の区別を取り上げる。
フッサールによれば、記号には二つの機能がある。一つは「指示」であり、矢印が何かを指し示したり、煙が火の存在を示したりするように、記号がそれ自身を超えた何かを間接的に指し示す働きである。もう一つは「表現」であり、記号が意味と一体化し、思考内容を直接的に意識に現前させる働きである。フッサールは、科学的で厳密な哲学の基礎を築くために、媒介や推論を必要とする「指示」を二次的なものとして退け、純粋で直接的な「表現」の領域にこそ真理の源泉があると見なした。これこそが、デリダが暴こうとする「現前の形而上学」の核心的な構造であった。
デリダによれば、この現前の理想が最も純粋な形で現れるとされたのが「声(voix)」である。特に、他者を介さず、自分自身に語りかける「内なる声」(独り言、soliloquy)は、フッサールにとって特別な地位を占めていた。文字(書き言葉)が、書き手や文脈という外部性を必然的に伴うのに対し、内なる声は、話すことと聞くことが完全に一致し、思考が思考自身に完全に透明な形で現前する場であると考えられた。デリダはこの状態を「純粋な自己触発(pure auto-affection)」と呼ぶ。この自己への絶対的な近接性において、あらゆる外部性、媒介、つまりは記号性そのものが消去され、純粋な現前が実現されるはずだった。
しかし、デリダの真骨頂は、このフッサール的な現前の理想が、実は達成不可能な幻想であることを、フッサール自身のテクストの内側から論理的に暴き出す点にある。デリダは、いかなる現前も、すでに「非現前」によって根底から蝕まれていることを示す。
第一に、他者の心は決して私に直接現前することはない。他者の喜びや悲しみは、その身振りや表情といった「指示」を通じてしかうかがい知れず、その他者の内面そのものが私の意識に直接現れることはない。
第二に、この非現前は、自己自身の意識にさえ及ぶ。自己意識が自身にとって完全に透明であるというデカルト以来の想定は疑わしい。精神分析の存在が示すように、我々の意識は、我々自身にも知ることのできない無意識の領域や、抑圧された他者性によって常にすでに汚染されている。フッサールが想定した純粋な自己触発は不可能であり、自己は常に、捉えがたい他者との厄介な関係のうちにある。
第三に、この現前を不可能にする根源的な要因が「時間」と「言語」である。フッサール自身が後の時間論で示すように、意識の「今」は、常に過去の記憶(把持)と未来への予期(突出)によって浸透されており、孤立した純粋な「現在」の点として存在することはない。
さらに、フッサールが純粋な現前の媒体として特権化した「声」もまた、言語である以上、本質的に「差異の体系」である。あらゆる記号は、他の記号との差異によってしか意味を持たず、それ自体で自立することはできない。この構造は、必然的にズレと媒介を導入する。デリダはこの、あらゆる現前を不可能にし、差異(difference)と遅延(deferral)を同時に生み出す根源的な運動を、有名な造語「ディフェランス(différance)」と名付けた。
そして、フッサールが言う「イデア的対象」(例えば「三角形」という普遍的な概念)ですら、このディフェランスから逃れることはできない。いかなるイデア的対象も、その都度の具体的な経験における「反復可能性」によってしか成立しない。しかし、この反復は決してイデアそのものとの完全な一致には至らず、常に差異と遅延を伴う。かくして、フッサールが哲学の確固たる基礎と見なした「現前」は、デリダの分析によって、その根底から解体されるのである。
第二部:ハーマンによるデリダ批判―見過ごされた「対象」と「時間」
グレアム・ハーマンは、デリダによる現前批判の分析の鋭さとその重要性を認めつつも、デリダがそのラディカリズムのあまり、フッサール哲学の最も独創的で重要な革新を完全に見過ごしてしまっていると、鋭く指摘する。
ハーマンによれば、デリダが見過ごしたフッサールの最大の功績は、デイヴィッド・ヒュームに代表されるイギリス経験論の「質の束(bundle of qualities)」理論からの決定的な決別にある。経験論では、リンゴのような対象は、赤さ、丸さ、甘さといった感覚的な性質の単なる「束」にすぎないとされる。
フッサールの師であるフランツ・ブレンターノも、この経験論的な枠組みの中に留まっていた。しかしフッサールは、ここから決定的な一歩を踏み出す。フッサールにとって、我々の意識が向かうのは、刻々と変化する感覚的性質の束(フッサールの言葉で言えば「現出の多様体(adumbrations)」)ではなく、それらの変化を通じてなお「同一のもの」としてあり続ける「志向的対象(intentional object)」そのものである。
ハーマンは、オンラインで花束を注文する例を挙げる。我々が注文するのは、コンピューターの画面に映し出された特定の光と色のピクセルの集合(性質の束)ではない。我々が意図しているのは、様々な角度から見ることができ、香りもするであろう、あの具体的な「花束」という対象そのものである。画面の表示は、その対象が我々に現れるための一つの側面に過ぎない。この、変化する「現われ方(内容)」と、その背後で同一性を保つ「対象」との間の根本的な断絶こそが、フッサール現象学の核心的な革新であった。
ハーマンによれば、デリダはこのフッサールの核心を見落とした。なぜなら、デリダは、この「志向的対象」が持つ不変の「自己同一性(self-identity)」を、意識が自身に対して完全に透明であるという「自己現前(self-presence)」と致命的に混同してしまったからである。
デリダは、「自己現前」が不可能であるという正しい哲学的洞察から、それと結びついていると彼が考えたあらゆる「自己同一性」もまた、現前の形而上学の残滓として破壊されねばならない、という飛躍した結論に至った。この「同一性へのアレルギー」とでも言うべき姿勢が、デリダにフッサールの「対象」という概念の重要性を見えなくさせた。デリダにとって、不変の対象とは、現前の形而上学の最後の砦に他ならなかったのである。
同様の誤解は、デリダのフッサール時間論の読解にも見られる。デリダは、フッサールが時間の連続性を認めながらも、依然として特権的な「今」という点に固執していると批判する。しかしハーマンは、フッサールの時間論が、まさにブレンターノの「全ての存在は瞬間に存在する」という理論への批判として構想されていることを強調する。
フッサールにとって、時間の経験を可能にするのは、瞬間的な感覚データ(内容)の連なりではない。それを可能にするのは、時間の流れの中でその現われ方(音の大きさや明瞭さ)を刻々と変えながらも、なお「同じ音」として持続する「志向的対象」の同一性なのである。ピアノの音が鳴り響き、徐々に消えていく過程で、我々は「同じ一つの音」が時間のなかで持続していると経験する。この対象の持続こそが、時間を時間として成り立たせている。
デリダは、この対象の持続、すなわち「同一性」を、現前の形而上学の変種として批判の対象とするあまり、フッサールの時間論が瞬間説を乗り越えるための独創的な戦略であったことを見抜くことができなかったのである。
第三部:ハーマンによるデリダ批判―見過ごされた「不在」の多様なモデル
ハーマンのデリダ批判は、さらに、デリダが現前批判の先に進む上で、より生産的であったはずの複数の哲学的選択肢を、自らのラディカリズムゆえに見過ごしてしまったという点にまで及ぶ。
その見過ごされた最大の可能性が、ハイデガーが提示した「不在」あるいは「隠されたもの」の哲学である。デリダは、「現前」の単純な対立項として「不在」を立てることは、結局のところ「現前」という概念の否定形に留まり、形而上学の枠内に囚われてしまうと恐れた。彼にとって、単純な「不在」は、語り得ぬものについて語ろうとする否定神学のパラドックスに陥る危険性を孕んでいた。
この恐怖が、デリダをある種の袋小路へと導いた、とハーマンは指摘する。デリダは、ハイデガーの哲学における「存在(Being)」が持つ、我々のアクセスから常に退隠し、隠されているという性格(=不在)を認めつつも、その存在がなお「自己同一性」を持つという理由で、それを形而上学的であるとして批判した。しかしハーマンによれば、これは再び「自己同一性」と「自己現前」を混同する誤りである。ハイデガーの存在は、自己同一ではあるが、決して我々に直接的に現前するものではなく、むしろあらゆる現前の基盤でありながら、それ自身は決して現前しない、という究極の「不在」のモデルであった。
ハーマンによれば、デリダの哲学は、このハイデガー的な「深層」としての不在モデルだけでなく、20世紀思想が探求してきた他の豊かな「非現前」のモデルをも排除してしまっている。例えば、マーシャル・マクルーハンのように、我々がその内部に住まい、意識することなく我々の知覚を規定している「メディア(雰囲気)」としての非現前。あるいは、美術批評家クレメント・グリーンバーグがモダニズム絵画のうちに見出した、物語的内容の背後にある「平坦な背景(カンヴァス)」としての非現前。
デリダは、対象と文脈、前景と背景、内容と形式といったあらゆる二項対立的な区別を根底から解体しようとする。そのため、これらの「隠れた背景」という考え方を受け入れることができない。その結果、彼の哲学は、皮肉なことに、あらゆる隠れた深層や背景を剥ぎ取られた、経験の「内容」や「テクスト」の表面のみに焦点を当てるものとならざるを得なかったのである。
結論
グレアム・ハーマンの精緻な分析を通じて、ジャック・デリダの『声と現象』は、西洋哲学における現前の特権を暴く画期的な著作であると同時に、その批判のラディカルさゆえに、極めて重要な哲学的可能性を見過ごしてしまった両義的なテクストとして浮かび上がってくる。
デリダの「同一性へのアレルギー」は、彼にフッサール哲学の核心である「志向的対象」という概念や、ハイデガーが切り開いた「不在」の哲学の豊かさを見えなくさせてしまった。彼は「現前の形而上学」との闘いに勝利するために、対象そのもの、そしてそれが隠れることのできる深層や背景をも、道連れにしてしまったのである。
ハーマンのこの批判的読解は、デリダの功績を貶めるものではない。むしろそれは、「形而上学の閉鎖」というデリダ的な物語が、哲学にとって唯一の道ではないことを力強く示すものである。フッサールの「対象」、ハイデガーの「隠れた存在」、マクルーハンの「メディア」といった、デリダが「見過ごした断片」の中には、現前の支配を乗り越えるための、デリダが示した道とは異なる、しかし同様に重要で未だ探求され尽くしていない複数の道筋が残されている。ハーマンの論文は、その未踏の領域への扉を開く、示唆に富んだ招待状なのである。