⚫︎Gemini 2.5 proの要約能力が素晴らしいので、なんかやけに楽しくなってきてしまって、いろんなテキストをどんどん要約してもらいたくなってきてしまう。
(もはや、外国語で書かれた哲学や人文系のテキストをAIで翻訳したり要約したりして読むことに何の抵抗もないが、しかしそれでもまだ、外国語で書かれた小説をAIの翻訳で読もうという気にまではなっていない。ぼくの中に小説(文芸 ? 芸術 ? )に対する何かしら神聖視のようなものがあるのだろうと思う。ただ、この一線を越える日もわりと近いのかも知れないとも思う。それは、神聖視が破られるというより、AIの信用性が高まるということだろう。)
⚫︎我々は、手に馴染んだ、極めて近くて親しいと感じているものの中から、それまで気づかなかった意外で新しい側面を発見して困惑し、たじろいだりするし、逆に、自分とはまったく無縁だと感じられたものの中に、意外にも近しい要素を見つけて驚いたりもする。ハーマンの言うオブジェクトの「組み尽くせなさ」とは、そのような、いわば普通のことだ。どんなによく知っているものでも、すべてを知り尽くすことはできない。
うろ覚えで確認しないまま書くが、昔、『探究』のどこかで柄谷行人が、「他者」を完璧に理解することはあり得ないが、また、まったく理解できないということも考えにくいということを書いていた。他者とはつまり、限定的にしか理解できないということであり、不可知(不透明)な部分がどうしても残るということだが、まったく異質の存在ということではない、と。これもうろ覚えだが、確かレヴィナス的な「まったき他者」という概念への批判として書かれていたと思う。
ハーマンは、柄谷が「他者」としていることを、人間的エージェント、動物的エージェントに限らず、あらゆるオブジェクトに対しても拡張する。
ハーマンのオブジェクトは、ある意味で不可知論的であり、否定神学的であるが、それは、不可知論・否定神学の、分散化であり軽減化であろう。オブジェクトは決して組み尽くせないが、しかしそれは、絶対でも、永遠でも、崇高でもなく、たんに「奇妙」である(故にオブジェクトはホラー的である)。それは貴重なものですらなくありふれている。組み尽くせないというのは、断絶しているということではない。実際に「感覚的」な領域でモノ同士は常に関係しあっているし、「感覚的な関係」は新たな「実在的オブジェクト」を生成し続けてもいる。組み尽くせないとは、どんなに親しくよく知ったものであっても、そこから「予想外の新たな側面」が浮上してくる可能性が(奇妙な感触として)常に残されているということだ。
(知ることができないのではなく、知り尽くすことができないだけだ。知ることができるが、知り尽くすことはできないということが「尊厳」を可能にする。)
モノは、それが存続している限り、(そのモノがそのモノとしての自己同一性を保ちながら)その在り方の再評価・再発見に対して開かれているし、また、新たなネットワークへの接続やネットワークの組み替えに対しても開かれている。そのような未知の未来への可能性を確保するために、「組み尽くされない」自律した次元として「実在的オブジェクト」が確保されなければならない。
(モノが変化・生成変化することで、未知の可能性へ開かれるのではなく、そのモノがそのモノとして存続することが、未知への可能となるというところが少しユニークであるかも知れない。)
(現実的には、再評価されなくてもいいし、ネットワークの再編成が起こらなくてもいい。オブジェクトは、組み尽くせない可能性を持ったままで、基本的には沈黙したまま引きこもっているのだし、それが普通で、だからそれでいいのだ。「意識高い系ではない」この点はすごく重要だ。)
では、なぜそんな当たり前のことをわざわざ「オブジェクト」として概念化しなければならないのか。一方で、神、存在、大地、イデア、というような、存在の一義性を強調する考えに対して、存在者の多義性、多様性の権利を確保するため。もう一方で、あらゆる物事が流動的、そして断片的であって、生々流転する流れの中にあるという考えに対して、個が個としての統合性と個別性を持ち、(限定的にではあるが)安定し、自律して存在する(存在し続ける・存続する)ことの「尊厳」を確保するため。そのようにぼくは考えている。
それは、モノ主義(個物主義)あるいは還元主義でもなく、コト主義あるいは関係主義(ネットワーク・コンテクスト主義)でもなく、そのどちらからもこぼれ落ちるものの権利を「オブジェクト」として概念化していると、ぼくは思う。