●出がけに、『食人の形而上学』(エドゥアルド・ヴィヴェイロス・デ カストロ)がようやく届いた。電車のなかで最初の方だけ読んだ。
本当に「ようやく」という感じで、思えば、「デスコラとヴィヴェイロスの対談についてラトゥールが書いた記事」をはじめて読んだのは2012年の1月20日のことだった。日記には清水高志さんのツイッタ―で知ったと書かれている。
http://d.hatena.ne.jp/furuyatoshihiro/20120120
記事は桜美林大学の奥野克己という先生が翻訳してブログに載せていたもので、ブログの日付は2009年11月23日になっている。
http://blog.goo.ne.jp/katsumiokuno/e/ea91eb0a48dbe6d1aa231bd1dcf7663a
2013年になると、「偽日記」にデューリング、メイヤスー、ジェル、ストラザーンという名前が出てくるようになる。名前は出てくるが、テキストがなかなか読めるようにならず、日本語で読める紹介をウェブで探していた(主な情報源は岡本源太さんのブログ)。
http://d.hatena.ne.jp/furuyatoshihiro/20130519
だけど、清水高志さんから中沢新一読書会に誘っていただかなかったら、このような方向に関心が向かうこともなかったかもしれない。これはもう4年前、2011年の11月のことだ。
http://d.hatena.ne.jp/furuyatoshihiro/20111105
ラトゥールをはじめて読んだのも、同じ年(11年)の7月だった。まず「「VOL」に載っていたタルドについてのテキストを読み、その後、すぐに『虚構の近代』を読んでハマった。
http://d.hatena.ne.jp/furuyatoshihiro/20110704
というか、そもそもは清水さんの『来たるべき思想史』を読んだ、というところからはじまっている。
http://d.hatena.ne.jp/furuyatoshihiro/20110621
こう考えると、ぼくにとって2011年はとても重要な年だったのだなあと思う。清水さんの本を読んだことからはじまった関心が、一方でラトゥールや新しい人類学、情報科学へと繋がり、それが他方で、西川アサキさんの仕事や、シンギュラリティ、人工知能宇宙論や量子物理学などに対する関心とも繋がってゆくことになる。
(そのおかげでしばしば「お前は何を目指しているのだ」と自問自答するようなとっちらかったことにもなるのだが。)
●上の話とはまったく別の話。夜11時くらいで、帰宅するための電車に乗っていて、けっこう混んでいたけどぼくは座れて、立っている人と人の隙間から見える、向かいに座っている女性のふわふわしたモスグリーンのセーターの色と質感と、その背後の窓の外に広がる闇(外は雨)と流れる街の明りと、そこからやや左にずれたところにいた、黒いパーカーのフードを頭にすっぽりかぶって、所在なさげともいえるし、なにか悪事を企んでいそうともいえるような感じで立っているひょろっとした若い男性がいて、電車のなかの生暖かい空気と軽い閉塞感、耳鳴りのような感覚があいまって、その場全体が自分が死後にみている夢であるような感じがすごく強くして、妙な幸福感と、次の瞬間に自分は本当に死んでしまうのではないかという恐怖とで、今まで味わったことのないような感覚になったのだった。