●山方伸さんのブログに、山本透さんという人の展覧会のことが書かれていた(ぼくはこの展覧会を観ていないし、山本さんの作品のこともまったく知りません、なので、以下に書くことはあくまで山方さんの文章のみを読んで、それに刺激された勝手な妄想以上のことではないというとをおことわりしておきます)。
http://d.hatena.ne.jp/blepharisma/20130508
≪山本さんはスナップの名手だった。瞬間に反応する手際にまずはびっくりする。でもこれはいわゆる「わかる人にはわかる」ことで、多くの人にはこのことは見えない。そういう瞬間を意識して過ごしたことのないものにはわからないことだし、山本さんはそのことを見せたいわけではないのだけど、わたしにはまずそのことが見えてしまう。そのことが気になったので山本さんにそのあたりのことを伺うと、空手の突きに比べれば風景の移り変わりは遅いです、という返事、や、かつてずっとストリートスナップをやっていた、ということ。≫
●≪空手の突きに比べれば風景の移り変わりは遅いです≫というところにぼくは反応したのだけど、ここだけではなく、引用した一連の流れのなかでこの言葉が出てきたことに反応した。
山本さんという人のことをまったく知らないのだけど、おそらくこのように答えるということは空手をやっている人なのだろう。ぼくは空手をやったこともないし、写真も「写真をやっている」と言えるほどやってはいないのだけど、空手をやるということと、写真をやるということは、ある人の人生においてそれぞれ別々に構築された異なる習慣=身体技能で、つまり同じ身体の上にありながら、別の背景、別の文脈の上に描かれた(築かれた)図のようなものなのだろうと思う。つまりそれは、自転車に乗れることと文字が読めることの違いと同じくらい違うことだろう。空手をする時に脳−身体から呼び出される記憶−文脈−体系(地)と、写真を撮る時に呼び出される記憶−文脈−体系(地)とは、同じ身体のなかでも異なる切断面として形作られてあるのではないだろうか。
例えば、山方さんが書いているように、山本さんの≪瞬間に反応する手際≫が≪そういう瞬間を意識して過ごしたことのないものにはわからない≫ものなのだとしたら、それは写真という技術に特化された高度に専門的な技能であるだろう。そしてそれは写真を撮るという技能(文脈、地)を共有する山方さんには感知される。だけど、それについて質問された時に≪空手の突きに比べれば風景の移り変わりは遅いです≫と応えるということは、その時(しかし「その時」とは、「写真を撮る時」なのだろうか、「質問を受けた時」なのだろうか)、空手と写真というそもそも異なる地(座標軸のとり方が異なっている座標)に描かれた図が、その空間そのものの組成の異なりという齟齬を超えて交錯しているということではないだろうか。異なる平面に描かれた図が、三次元においては交錯可能であり、異なる空間に組み立てられた立体が、四次元においては交錯可能であるように、異なる地平として築かれた習慣=技能が高次元において交錯し、相互作用している、と。
●これは言葉の問題ではないと思う。≪空手の突きに比べれば風景の移り変わりは遅いです≫という言葉は、「意味」としてはおそらく大したことは語っていない。空手についても、写真についても、この言葉だけから多くを学ぶことはきっとできない(これを「意味」としてとると、おそらく「領域横断性」みたいな平板な概念が出てくる)。「空手」と「風景の推移」とを重ね合わせるという修辞(あるいはイメージ)の問題でもない。これを修辞の問題ととると、狭いところに閉じ込められる。
重要なのは、この言葉が、異なる二つの地平の交錯の結果として出てきたように感じられるいうこと。つまり、この言葉の向こう側に、異なる地の交錯という高次の出来事があったいうことが(幻かもしれないけど)感じられるというところが、きっと重要なのだと思う。そしてそれが、意味とは別の次元で、その言葉を読んだ(聞いた)人の身体のなかで、何かを刺激し、動かそうとする。この時、おそらく(アラカワ+ギンズが言うように)ブランク(隙間)がそれ自体として作動しているのだと言えるかもしれないと思う。
●これは一昨日の日記のつづきでもあります。