●今年触れることのできた様々な意味での「作品」のなかで最も強い刺激を受けたのはおそらく大エルミタージュ美術館展のマティス「赤い部屋」で、もちろんセザンヌ展もすごかったのだけどたくさんの作品をいっぺんに観たので、作品単体のインパクトとしては、やはりマティスということになる(そして、セザンヌマティスと拮抗するくらい衝撃を受けたが、14の夕べでの小林耕平+山形育弘、伊藤亜紗のパフォーマンスだった)。エルミタージュ展には三回行ったのだが、ほぼこの作品しか見ていない感じで、他にもいいものがたくさん来ているのでちゃんと観ようとは思うものの、この先に「あれ」があるのだと思うとどうにも落ち着かず、結局三回とも、マティスの前にずっと張り付いているということになった。
この作品については、九月に尾道のなかた美術館のレクチャーと、十一月に佐々木敦さんの批評家養成ギブスとで、やや(ほんの僅かだが)突っ込んだ分析を試みたのだが、その時に考えたことをここにも書いておこうと思う。前にも同様のことを書いているのだけど、もうちょっと詳しく。



●まずざっくりと、この絵を観たときの最初の印象は、室内の赤のひろがりと、窓の外の緑とのあざやかな対比だろうと思う。そして、画面の下や右の縁の塗り残された部分をみればわかるとおり、この絵は当初は全体が緑で覆われていたはずだ。つまりこの絵では、緑のひろがりが、赤が塗られる(増殖する)ことによって窓の外へと押し出された、という動き−力を潜在的(あるいは歴史的)にもっている。緑は抑圧され、覆い隠され、狭い区画へ囲い込まれる。しかしその名残りは縁に残されているし、圧縮された窓の外と風景として室内と拮抗している。赤と緑の対比は、たんに配置されたコントラストではなく、このような動きと力を内包する。
次に、この絵は、いくつもの、普通には共立し得ない対の共存によって成り立っている。これは、対立であり抗争であると同時に、拮抗であり、共存であるような不思議な状態として実現されている。この絵は「赤のハーモニー」とも呼ばれるが、ここでハーモニーとは静的な調和というより、対立状態と共存状態とが重ね合わせられるようにして調和(融合)していることを指すだろう。
●話をまず、室内の部分に限定してみる。ここで複数の対立する要素は、立体的なモノと平面的な装飾模様という対立のバリエーションとして現れる。そしてその両者は主に、赤のひろがりと人物によって媒介されることで一つの画面のなかで結びつきを得ていると思う。次に表を示し、それについて説明する。


対立するもの 次元(空間の秩序) 虚実 塗り ひろがり 色彩 動きの方向 形象
装飾模様 平面 非在 厚塗り 拡散 寒色 縦方向 波的
モノ 立体 実在 薄塗り 集中 暖色 横方向 粒的
媒介するもの
赤のひろがり 平+立 非+実 厚塗り 拡散 暖色 全方位 面的
人物 立体 実在 厚+薄 集中 寒+暖 斜め 面的


●まず、普通に考えて、モノは三次元的な立体であり、装飾模様は二次元的な平面である。高次の次元である三次元の秩序で統合されたものとして考えるならば、モノは実在であり、模様は非在であると言える。しかしここでは明らかに、装飾模様はそれ自体として強い存在感を主張し、三次元の秩序のなかには収まらない。とはいえここでは、平面と立体の立場が逆転されて、画面全体の平面化が推し進められているのでもない。テーブルや椅子の斜めの線、窓枠の厚み、フラスコのような透ける花瓶に入った水の上面、丸みを感じさせる人物のモデリングなどは、あからさまに三次元的な厚みを表現している。つまりこの画面では、三次元的な空間と二次元的な空間という、二つの秩序が斑になって混じり合っている。
斑状になった非在と実在、平面と立体とが分離しないよう、その間にある落差(地の不連続性)を埋めているのが、赤のひろがりだと言える。この赤は、テーブルクロスの色であり壁の色である限りは、三次元的な空間の「ある位置」に配置されたモノのもつ固有色だが、装飾模様の地として作用する時には、三次元ではなく二次元的な平坦なひろがりとしての赤である。この時、空間のなかの「ある位置」に配置される赤(モノのもつ色としての赤)と、塗り分けられた平面のうちの一つとしての赤(二次元のなかの赤)という二つの意味が同じ赤に付与されている。正確に言えば、(実際は絵画は平面なのだから)三次元空間のなかにあるかのように(遠近法的に)表象された赤と、三次元的な空間表象を伴わない、たんにべた塗りされた赤という、二つの異なる価値を、同じ赤のひろがりが重ねて持たされる。
立体と平面という異なる秩序間の落差のクッションとされることで、赤が二価性をもたせられる、とも言えるし、二価性をもった赤のひろがりによって、立体と平面という異なる空間の秩序の落差が緩衝される、とも言えるが、どちらにしてもこの赤は、2.5次元とでもいうべき、平面と立体が重ね描きされた、あり得ないひろがり(空間のマトリクス)となる。
テーブルや壁を厚みのあるモノとして見ている時、赤は、三次元空間内に配置されるモノの色としてあらわれるが、装飾模様を見ている時、赤は、それ自体で二次元にベタ塗りされたような赤それ自体となる。表象空間のなかで機能する赤と、それ自身が装飾模様の一部として機能する赤との間を、どちらとも決定されぬまま(とはいえ、目は、その時々で「どちらか」として見るしかないのだが)流動的に行き来する時、この、三次元でもあり二次元でもある赤は、赤という色そのものが空間となり、空間の質となる。
赤が空間そのものとしてあらわれる時、この赤は、隠されることなくあからさまに見えているにもかかわらず、潜在的なマトリクスとなることで「見えていない」かのように作用する(見えているのはモノとモノの配置であって、地である「空間(座標)」そのものは見えないはずだから)。見えていないというのは言い過ぎとしても、赤はモノたちの世界から、世界の表面から、半歩後退したものとなる。赤を、見えていながらも潜在化させるこの構造が、この絵において独自の「赤の質」を作り上げているように思われる。赤のひろがりは、三次元的なモノの色であるのと同時に二次元的な生地の色であるという、矛盾を吸収するその二価的構造の隙間から、異次元の方に落ちてゆくような感じで潜在化する、とか言うと、あまりに感覚的な言い方い方になるけど。
●もう一つの媒介するもの、人物。この絵では、テーブルクロスや壁にある装飾模様は、厚塗りで、寒色によって描かれている。そして、ゆらゆらと左右に揺れをもちながらも、画面のなかで縦方向の運動を感じさせるように配置されている(一部、テーブルの厚みに配慮するかのように横方向に歪むけど)。対して、テーブル上の果物や椅子などのモノは、とても薄塗りであっさりと、主に(完全にではないが)暖色(+白)によって描かれる。そして、画面中央からやや下の位置に、横並びにほぼ一直線に配置されている。
人物は立体物であり、さらに厚みを感じさせるモデリングが施されているが、セーターは寒色で描かれ、全体に厚塗りである点では装飾模様の特徴に近い。とはいえ、頭部や手の暖色、そしてスカートの白などではモノの方への親和性がみられ、モノと直接接している手の部分は、ほとんど絵の具をふき取っているほどの薄塗りである(特に右手はほとんどキャンバスの地が見えてる感じで、いわばこの絵の虚の焦点のようでもある)。つまり、色彩や塗りとして見ると、モノ(立体)と模様(平面)が、この「人物」という地点で合流しているように感じられる。
そしてこの人物は、前傾姿勢をとり体の軸を斜めに傾かせている。この微妙な傾きは、たんに縦方向の動きと横方向の動きの合流点というだけではない、非常に重要な動きを画面に導入していると思う。
●モノを成り立たせる空間と、装飾模様を成り立たせる空間という、二つの異なる地(座標)が、赤のひろがりと人物の像という、これもまた二つの異なる媒介によって、異なるやり方で、(図が示すように)互い違いのようにして媒介されている。一方の媒介は空間的な次元で両者を媒介し、もう一方の媒介は、色彩やマチエールの総合性によって媒介している。この絵の複雑さは、地の複数性と、それらを媒介するものの複数性という、二重の複数性の重ね合わせによって成立しているように思われる。
●さらに言えば、この人物は身体の動作、ポーズを見れば、起きているはずなのだが、顔や頭部の傾きを見ると眠っているかのように感じられる(マティスの他の作品からの連想によるのかもしれないが)。そもそもこの人物こそが、体は起きているが頭は眠っているという二重性をもつ、二重性の根源のようにも見えてくる。そうすると、この、両立不可能な二つの秩序が二つの媒介によって重ねあわされた室内空間は、この人物の夢のなかの空間なのではないかと思えてくる。この作品は、この、眠っている頭の内部にひろがる空間が、頭部を支点として反転して、裏側が表面へとむき出しにされたものなのではないか、という気もしてくる。
そこで再び気になってくるのが、室内の空間と、窓の外の空間との関係だろう。もともと緑であった室内の空間が、補色である赤によって塗りこめられ、いわば「反転する」ことで、外へと追いやられた緑の空間。
この二つの空間の関係について、レヴィ=ストロースの神話の変換式を使って分析してみたいのだが、まず神話の変換式の説明からする必要があるので、それは明日につづく、ということしたい。