●つづき。マティス「Pink Nude」(1935)のプロセスの解析。
●五枚目(State 9)。もともとベッド(マット)だった部分の平面的フィールドに、垂直よりやや左に傾いた縦縞のラインが描き加えられる(これにより、画面前にあるベッド(マット)の段差はほぼ無意味化するが、それでもまだ痕跡は残されている)。それと同時に、人体のウエストあたりのラインの変更を検討するために、紙が貼り付けられている。また、もともと部屋の壁だった平面的フィールドでも、扉の痕跡が消され、タイルのような格子模様が描き加えられる。壁と床のフィールドは、もはや何だったか分からなくなったイスの背凭れで左右に仕切られているが、その右と左で少し変化がつけられる。
ここで最も大きな変化は、平面的フィールドに縞模様や格子模様を加えることで、より強く「平面化」が進行していることだろう。しかしここで、壁の格子模様はほぼ正面向きの格子であるのに対し、ベッド(マット)部分の縦縞模様はやや斜めに傾いていて、この違いによって、「壁(垂直)」と「マット(水平)」の違いという、三次元に由来する空間性(差異性)は維持されている。また、縦(やや斜め)に画面の上下を大胆に貫く(ある意味、身体を暴力的に貫くような)縞模様の明るい線(色帯)は、画面を活性化させるとともに、画面の表情を大きく変化させる。
(この、縦縞模様の導入は、平面性の一層の強調であるだけでなく、画面全体があまりにも調和的であり過ぎることに対する、マティスの不満を表しているようにも感じられる。だが、それはたんなる調和の破壊---あるいは挑発---ではなく、以前からある、ヴァーチャルな二次元的装飾模様と、リアルな三次元的な物とが共存する空間をつくるという問題と密接に繋がっている。ただしここでは、おそらく縦縞模様は装飾模様とは異なり、対象=モデルの側---絵画の外部---に根拠を持つものではなく、「前段階の画面の状態」から直接要請されて生じたもの、つまり絵画の内的な要請から生み出された抽象的な「縦縞」だと思われる。)
そして見逃せないのは、背景のより大胆な平面化に対して、人体は、(1)肋骨、胸の厚みの強調と、ウエストのくびれの強調、(2)床(マット)に接する背中の部分(つまり「重さ」を受ける部分)の直線化、という変化が考慮されている点だ。つまり、背景が平面化されるのに抗して(あるいは並行して)、人物では、立体性と重力性とをさらに強調する方向へと検討がなされている。



●六枚目(State 10)。ここで最も目立つ変化は、(1)ベッド(マット)部分の縦縞模様が、格子模様に変化したこと。そして、(2)人体において「State 1」の時以来に再び、上半身と下半身の「捻じれ」が強調されたことだろう。同時に驚くべきことは、制作開始以来一か月にわたってほぼ手を加えられていなかった、イスの背凭れと花、花瓶の部分が修正されていることだろう。とうとうこの部分に手を付けた。椅子の背もたれは小さくなり、壺のような形になる。そして花の部分は、大胆な単純化が(紙を貼って試すことで)検討されているようだ。
ベッド(マット)の部分が縦縞模様から格子模様に変化すること(おそらく、縦縞模様では人体の重さを支える「接地面」を表現することができないと判断したと思われる)で、背景がやや静態的になったので、その分、人体にダイナミックな「捻じれ」をつくることで画面に動きをつくろうとしているのだと思われる。この結果、人体は、こちらを向いている、顔、両腕、胸の部分と、あちらを向いている、尻から両足の部分という、二つの部分に分離され、腹から腰の部分は上と下を結ぶことで「捻じれ」を表現することに特化された感じになった(お腹や腰の辺りの表情は犠牲にされている)。
ここまで、平面化、およびフォルムの写実からの逸脱が起ってくると、さすがに、素直な三次元的表象として描かれている花と花瓶の部分が浮いて来てしまうので、修正を検討せざるを得なくなったと考えられる。



●七枚目(State 11)。ここでは、「人体の良いフォルム」がさかんに探られている途中であるようにみえる。何か所化に「切った紙」が貼られ、フォルムの細かい変更が検討されている。
左の脇の下の面積が拡張されることで、頭から胸の辺りの正面性が増し、さらに左腕が大きくフレームからはみ出していることで、上体の方に強く重力がかかっている感じになっている(左腕がフレームから大きくはみ出すことで、右腕と左腕のポーズによってつくられる大きな三角形が、フレームの外にまで飛び出している感じになってもいる)。この上体へとかかる重力に抗して、ほとんど「脚」であるという対象性を失ったかのような自由なフォルムで凸型をつくる左脚(と、左脚のひざ裏のラインと背景のつくるネガティブな凸型)が、画面を上へとひっぱり上げるような動きをつくり、人体のこのような構造によって、画面全体としてダイナミックな「捻じれ」の運動(捻じれの空間)が生まれている。
(ただ、この段階で、花瓶と花は、どうしてそこにあるのか分からないくらいに「浮いた存在」になってしまっているので、花瓶の部分に修正の手が加えられかけている。)
(さらに言えば、人体によってつくられるおおきな「捻じれ」の空間と、平面的フィールドを活気づけつつも静態化する格子模様との関係も、ここではそれほど明確とは言えないかもしれない。)
ぼくの感覚では、この段階(State 11)こそが、もっとも多くの可能性に対して開かれている、非常に素晴らしい状態であるように思われる。



●八枚目(State 12)。前の写真から二か月が経過しているが、ここで、今までの「人体の良いフォルム」への探求をいったんすべて御破算にするような大きな飛躍が生じている(人体の「捻じれ」が消えてしまう)。さらに、制作開始時点からまったく変更を加えられていなかった「顔」の部分が、跡形もなく消されてしまって、フレームと並行するような角度に垂直に立ち上がり、位置も角度も変えられてしまっている(それにともない、右腕も垂直に立ち上がっている)。花瓶と花も、左脚によって半分ほど消されている。
ここでは何か、根本的な仕切り直しが行われている。
ここで特に重要な変化は、今まで(枕のような、やや高くなったクッションに)自然に重さを預けていた「頭部(顔)」が、画面のフレームに押し上げられるように(人体の構造を考えるとかなり無理矢理に)垂直に立ち上がったという点だと思われる。これにより、今まで、画面の正面に近い方を向いていた「頭部、肩、胸、左右の腕」がつくる平面が、上を向くことになり、その結果、上半身と下半身との間にあった「捻じれ」がなくなってしまうということになる(この前の段階では「捻じれ」こそが、この作品の空間の根本をつくっていた)。この段階で、胴が必要以上に「ずん胴」になっているのは、この変化(捻じれの消失)の顕著なあらわれであろう。そして「顔」だけが、無理な姿勢で首を曲げ、こちら(画面の正面)を向いている(「捻じれ」は首に生じている)。この頭部の立ち上がりによって、人体の重さは、ほぼ直線的になった背中のみで支えられている感じになる(上半身の、ゆったりともたれるような感覚は完全に消えた)。
これはほとんど「別の絵になった」というくらいに大きな方向転換であろう。ではなぜ、このような方向転換が必要だったのだろうか。
ここで、背景の格子模様の多くが消えているのは、人体の部分のデッサンを何度も直し、その度に大きく形が変動するので、それに合わせて背景が何度も塗り直されているためだろう。ある程度人体の形の収まりがつくまで、格子模様までいちいち直すことはしない、と。ただここで見逃してはならないのは、画面右側の顔の前や左わきの下あたりでは、格子模様が斜めではなく、垂直(と水平)になっているところだ。
さらに、(これは二つ前の段階から、紙が貼られることでそうなっていたのだけど)もともとベッド(マット)の背凭れだった部分の傾斜もまた、はっきりと垂直と水平になっている。人体の、首と背中の関係も、垂直と水平(直角)になっている。
おそらく、この前の段階までは、人体の捻じれという三次元的な状態と、格子模様による背景の平面化の強調とを、格子模様を斜めにすることで協調させようと試みていたのだと思われる。しかしその方針は二か月の間に変化し、「捻じれ」への指向は、平面性によって徐々に抑圧されていったと考えられる。それにより、今まで以上に水平性と垂直性が強く意識されるようになっている。おそらくその過程のなかから、ベッド(マット)や壁など、複数の平面的なフィールドと人体の関係という以上に、フレームの矩形と人体の関係という意識が強く出てくるようになって、その結果として、この大胆な仕切り直しがあるように思われる。
(「State 1」の段階で「捻じれ」のある人体が描写され、「State 4」の段階で、平面性の強調によって一度人体の「捻じれ」が消えて、「State 9」で復活の萌芽が感じられ、「State 10」でそれが復活すると、「捻じれ」こそが絵画空間の中心になるのだが、それがまた「State 12」で消失する。マティスはここまで、人体の「捻じれ」にかんして、何度も行ったり来たりしている。しかしそれにしても、ここでの変化が一番大きい。)



●おそらく、見ることが出来る16枚(16段階)の制作過程の写真のなかで、この四枚で示された過程が、最も大きく絵が動いている過程だと思われる。八枚目の写真の段階(State 12)で、ようやくこの絵の進むべき方向が見えた、という感じかもしれない。しかしこれはあくまで事後的な判断で、制作途中では、この段階でもっとも混乱していた(途方に暮れていた)のかもしれない。