●昨日からのつづき、マティス「赤い部屋」について。



●「赤い部屋」では、赤のひろがりが支配する室内空間と、窓の外の緑のひろがる風景という二つの部分が共存している。それは、室内空間において立体と平面が共存していることとパラレルであると言える。窓の外には、室内の赤のひろがりに対応する緑のひろがりがあり、テーブルに対応する生垣のような葉の集まりの塊があり、テーブル上の果実に対応する黄色い点状の花の散らばりがあり、うねる装飾模様に対応する樹の幹と枝があり、窓に対応する家がある。赤のひろがりが反転したかのような緑の風景(例えば、室内では視線を外へと開く窓に対応するものが、外の風景では視線を遮断する家の壁である)は、その存在自体が室内を見つめる(誰かの)まなざしであるかのように作用する。室内は、誰もいない室外という非人称的なまなざしから見られている。
そして、室内はそもそも緑のひろがりとしてあったという制作途中のプロセスが、縁の塗り残し部分や装飾模様と赤との隙間から覗く下層によってわかるように示されている。つまり、窓の内と外はもともと切り離されてあるものではなく繋がっていて、窓の内側はその内に緑のひろがりを(下の層として)含んでいる。それは、赤の侵入(増殖)によって緑が抑圧され、窓の外へと押し出され、囲い込まれた、ということでもある(室内に相転移が起こった、とかいうと、いくらなんでも物理かぶれ過ぎるか)。それによって、室内の赤いひろがりと室外の緑のひろがりとには、たんなる対比、あるいは対立するものの共存ということに収まらない、不思議な関係が成立している。
この関係について、レヴィ=ストロースの神話の変換式の力を借りて考えてみたい。
●神話の変換式とは下記のようなものだ。
fx(a):fy(b)=fx(b):fa⁻¹(y)
この式は、左辺と右辺の同値性を示すというよりは、左辺から右辺への変換という経過を表わす。左辺を既にある状態、またはある種の均衡状態とすれば、そこに何かしらの力が加わり、右辺へと変化する、ということ。中間に「=」があるということは、変換後にも一定の構造が保たれるということでもあるが、それよりむしろ、左辺と右辺との関係によって、ある不可視の構造が浮かびあがるという風に考えた方がよいように思われる。つまり、左辺から右辺への変換の中間にあるものこそが重要となる。
ここで「x、y」は、神話における機能の対を表わす。例えば、善と悪とか、生と死とか、食べられるものと食べられないもの、のような。「a、b」は、機能を担う要素の対を表わす。山と海とか、人とオオカミとか、木の上と穴の底、のような。
この式の左辺と右辺とでは、下図のように三つのことが変化している。



(1)前の項と後ろの項とで要素が入れ替わる。(2)後ろの項の機能と要素が入れ替わる。(3)要素から機能となったaが逆数(a⁻¹)になる。
●この式が実際どのように機能するのかの例を『野生の科学』(中沢新一)p68〜71から借りて(それをさらぼくがに単純化、類型化して)示す。アマゾン流域に住むコギ族を例とするが、ここでは例としての分かりやすさを優先するのでその細部はまったく正確ではない。
コギ族には次のようなコスモロジーがあると(仮に)する。女性原理=建物の内側、大地、下。男性原理=建物の外側、天、上。そして彼らは特別な建物として寺院を持ち、それは柱を漏斗状に組んでつくられ、柱がクロスする上部をもち、砂時計のような形をしている。寺院の内部は女神の子宮と呼ばれる特別な場所である。



このような寺院のあり様は、通常時のコスモロジーでは次のように書くことができる。
f内部(子宮):f天(男性原理)
しかし、寺院で「性交の儀式」という特別な儀式が行われる時、男性の神官が女神の子宮のなかに入り込んで、女性の神官と性交する。そこで何が起こるかを、次のように書くことが出来る。
f内部(子宮):f天(男性原理)=f内部(男性原理):f子宮⁻¹(天)
ここには何が書かれているのか。まず、「f内部(子宮)」→「f内部(男性原理)」への変化がある。これは、寺院の内部に、後ろの項にあるはずの男性原理(男性の神官)が侵入することで、子宮という要素が内部という機能から切り離され、前の項からはじき出され、抑圧されることを示す。



それによって後ろの項が「f子宮⁻¹(天)」へと変化する。ここで、前の項からはじき出されて抑圧された子宮が、要素から機能となり、さらに逆数となって反転する。つまり、a(子宮=内=袋=下)としてあったものが、a⁻¹(女性器=出入り口=穴=天)となり、a⁻¹はクロスする寺院の上部に移動し、女性器となり、そこから豊穣な力をその土地と民(外)へと放出することになる。



これを抑圧されたものの回帰と言ってしまうとわかりやすいが、しかしここで、項の移動、要素から機能への転換、逆数への反転という、レベルの異なる三つの「ひねり(無意識的な加工)」が加えられていることが重要だ。さらに言えばこれは、男性の神官の寺院内への侵入という出来事が、コスモロジーの配置転換を通じて、ある力へと変換されていることを表現する。だからこれは単に、コスモロジーの配置転換があっても右辺と左辺とが同値だということを示すだけではなく、ある行為がどのような力へと変換されるのかというとが示されていると言える。
●では、これがマティス「赤い部屋」とどう関係があるのか。
「赤い部屋」はもともと「緑」であった。そしてそのことは、完成された作品からも分かるようになっている(観る者は、それを意識しなくても、赤の下に緑が響いていることは意識下に感じているはず)。つまり、赤は、緑の上から塗られ、緑のひろがりが赤へと反転することで、作品は完成したという、制作上の履歴もまた、完成された作品の一部として示されていることになる。
昨日書いたように、赤のひろがりは、三次元と二次元とを媒介するものであり、実在と非在とを媒介するものでもあった。ただ、室内において非在は寒色によって表現され、暖色によって表現される実在物との色彩上の媒介は、赤のひろがりではなく(色彩が複合的に使用される)人物によってなされていた。赤のひろがりは、半ば非在でありつつ、実在物と同じ暖色である。その点で、非在物もまた、半ば暖色を受け入れていることになる。もし、このひろがりが緑であれば、非在物はほぼ完全に寒色によって表現されていたことになるが、今度は実在物の方が寒色を受け入れることになる。完成前の、そのどちらにも転ぶ可能性のある(故に実際にはあり得ない原理的で対称的な)状態を次のように書くことが出来る。
f非在(寒色):f実在(暖色)
そして、緑のひろがりの上に赤が塗り込まれることで作品が完成し、原理的な対称状態が破られて、非在物にまで暖色が侵入した(非在物が暖色を受け入れた)、つまり緑が赤の下層へと抑圧された状態を「f非在(暖色)」と書けるとする。すると式は自動的に次のようになる。
f非在(寒色):f実在(暖色)=f非在(暖色):f寒色⁻¹(実在)
では、この「f寒色⁻¹(実在)」をどう読めばよいのか。
要素から機能へと移動し逆数となった寒色(寒色⁻¹)とは、ここでは赤に隠された下地の緑のことであり、その緑が部屋の外、窓の外へと押し出されたという出来事のことでであろう。そしてそれは機能としての実在(室内の存在/非在という対における実在)とは別の次元の、「要素としての実在」を示すものとなり、窓の外から、夢の空間である室内を見るまなざしとなる。実際、窓の外においては、実在と非在という対立はなくすべて実在物であり、それは(生垣のような葉の塊がややボリュームを感じさせる以外は)ほぼ平面的に、一元的に処理されている。窓の外は、立体と平面がリ混じる室内とは違って、平面=実在という矛盾のない世界だと言える。
実在である窓の外の風景が、夢である室内を見ている。つまり実は、夢を見ているのは人物ではなく窓の外の風景であり、室内の人物は夢を構成するものの一部に過ぎない。窓の外の風景こそが、夢の主体なのだ。だが、夢のなかで眠っている人物は「夢のなかでの眠り」によって、裏返しの裏返しとして覚醒に繋がっていてるとも言える。つまり、人物の頭のなかをひっくり返した裏側に当たるのが窓の外の風景なのだ。室内の赤いひろがりの下層に緑の広がりが隠されているというのは、そのようなことをも意味するとも言える。
●とはいえ、この絵の面積の大部分を占めるのはやはり赤い室内であり、たんに面積の問題ではなく、様々な対立するものたちが二つの媒介によって互い違いにつなぎ合わされることで作り上げられる空間の強度は、窓の外の風景を背後に押しやるだけの感覚的な充実と力をもつ。その意味では室内こそが主体であり実体であるとも言える。だがその室内空間の充実は、背後(下層という意味でも、後方という意味でも)にある緑によって、緑からやってくるまなざしの押し返しに支えられて成立しているとも言えるのだ。ここで虚実、主従の関係は反転しつづけ、循環することになる(この循環を動かしつづける力が、赤を塗り込める力、緑が押し出された力であろう)。そしてこの(室内での虚実の共立とは別の次元で作用する)室内/外という、虚実、主従の二面世界は、対立するというよりも裏表であり、それは赤とその背後の緑、人物の頭部とその裏側としての窓の外の風景という通路で、ひとひねりが加えられながら、メビウスの帯のように繋がっている。
この絵の不可解さと魅力は、おそらくそのような構造から(も)きている。