●朝、天気予報を確認したら、今日は雨は降らなそうなので、取材に出かけることにした。これから書こうとしている作家論の作家の小説に出て来る、我孫子にある小さな公園まで。別に、そこを是非とも見なければならないということはないのだが、そこと、その周辺の雰囲気を知っておきたかったから。我孫子というと、上野から常磐線というイメージだったのだが、西国分寺から武蔵野線で新松戸へ出て、そこから常磐線という方が近いみたいだった。二時間くらいで着いた。
我孫子の駅を下りた最初の印象は、光が、東京や神奈川とは全然違うということだった。たまたま今日が特にそういう天気だったのかもしれないのだが、光線がとても強くて、その分、影が凄く濃く出て、そのコントラストがキツ過ぎて、目の露出調整機能が上手く機能しなくて、目がちかちかして、見えているものが非現実的に感じられる。明る過ぎるために落ちる影が濃く、結果、全体の印象としては「暗い」感じでさえあった。南国の光というイメージ。二時間半くらい歩いたのだが、一時間くらいで、顔が日焼けでひりひりしてきた。あと、とても緑が濃い。光に含まれる暖色が強い感じで、木々の緑のなかにも常に暖色の気配が感じられた。高い建物がないので視覚的には平板な風景なのに、実際に歩いてゆくと坂が多くて、高低差が激しく、さらに、道がやたらと曲がりくねっていて、今、歩いている道がどこに繋がっているのかが予測できない。方角が分からなくなる。ここを曲がると、きっとあの辺りに出るだろうという予測が、ことごとく外れた。通り抜けられそうだと思って進んで行くと、道が右に曲がり左に曲がって、どんどん細くなり、仕舞いには、「私道につき通り抜け禁止」という看板が出ている、ということもあった。
八王子にも巨木は多いのだが、我孫子の巨木の多さと立派さはその比ではなかった。しかも、巨木が街中に「剥き出し」という感じであって、道路などにもはみ出し、せりだし、覆い被さっている、という感じ。この、暖色の濃い光のもとでは、きっと植物はよく育つのだろう。抑制を知らないような育ち方。駅から、目的地の公園に行く途中、民家と民家の間のごく狭い空き地に、人の身長よりも大きいアロエが生えていて驚いた。ジャングルのあやしい植物みたいだった。こんな風土なら、森のなかに《パイナップル》や《ラフレシア》があるという小説内の少年の妄想も納得できる気がした。陽射しは強いのだが、近くに大きな池(手賀沼)があるので、気持ちのよい風が吹いている(そのことをあらかじめ「知っている」せいなのか、風にときおり水のにおいが混じる気がした)。手賀沼では、強く明るい陽射しの下のベンチで、中学生くらいのカップルがすごくエロい感じでいちゃいちゃしていた。すぐ隣りのベンチで、おっさんが昼寝しているというのに(午後一時半くらいだ)。強い光でハトの模様がギラギラしている。白鳥がやたらとデカい。何かの荷物を引っ張っているボートが、信じられない遅さで進んでいた。
目的地の公園は、マンションに挟まれた、すごく小さくて細長いものだったのだが、意外なほどすんなりと辿り着けた。小説に書かれた、《かつての森の木が残された》《新しくできた中学校》の《校門脇の大きなクスノキ》や、《ちょうど彼がAとはぐれた辺り》に建っている《低層マンション》も、近くに確認できた。細長い公園の入口からは、ベンチとブランコが見えるだけで、奥はうかがえない。奥へと進み、コントラストのキツい木漏れ日が当たってギラギラしている公園内の《小高い山》のまわりを一周して、小説に書かれているのとまったく同じ文言が示された看板を確認した。まわりには、かつて森だった名残りがまだ充分に残っていた。
(追記)
《校門脇のクスノキ》は実在しない、みたいです。