07/11/26

●昨日、昼間に散歩したコースと、まったく同じコースを、今日は夕方歩いてみた。本当は、全く同じ時刻に、同じコースというのをやってみたいと思ったのだが、昼間に用事があって夕方となってしまったた。(かなり冷えていて、途中でトイレにいきたくなってしまい、トイレのある公園まで、やけに急ぎ足になってしまった。)あえて同じことを反復することのなかにある、違い。
ぼくは、日が強く射している時と、刻々と光の状態がかわって暗くなってゆく時間に散歩するのが好きで、どうも曇天の散歩ではあまり興奮しないみたいだ。(散歩とは、ぼくにとって、ゆったりと和むというよりも、知覚が過剰になって興奮する状態なのだ。勿論、一面では、だらしないくらい和んでもいるのだが。)
ウエルベック素粒子』をなんとなく読み始め、半分くらいまで読んだのだが、ぼくには、この小説から面白いところを一ヶ所もみつけることができなかった。一種の社会学的な記述(68年のせいで、我々の性生活はこんなことになってしまった、みたいな)としては一定の意味があるのかもしれないが、皮肉というよりもむしろ甘えを強く匂わせる偽悪的な調子がわざとらしすぎるように感じた。あと、科学的な言説を文学的な修辞として用いるやり方が、なんか違うように思う(全然クールじゃない)。
●『電脳コイル』6~8話。だんだん面白くなってきた。傑作の予感すら漂いはじめる。いわゆる「アニメ絵」から離れた絵柄で、地方都市のリアルを背景にしつつ、現実と向こう側の世界との行き来を描くような一連の作風(『となりのトトロ』とか『風人物語』とか『かみちゅ』とか『ノエイン』とか)の流れの上にありつつ、そのなかで、現実と向こう側の世界との微妙な境界のあり様が(少なくともぼくにとっては)突出してリアルだと感じられる。子供の頃は(そして多少は今でも)、本当にこのようにして空間を感じていた。ところどころ、ノスタルジーが行き過ぎになる感じもあるけど、臭くなる寸前でギリギリに踏みとどまっているように思う。そして、この種のファンタジーは(小説だと)しばしば、光と闇のような静態的二元論に落ち着きがちなのだが、電脳空間という設定と、アニメとしての「動き(運動神経)」が、そこへと安易に着地してしまうのを防いでいるように思われる。