●最近また、散歩の時にちょこちょこ写真を撮るようになった。とはいえ、お金がないので、デジカメで、しかもプリントもせず(出来ず)データのまま溜まってゆくばかりなのだが。それで、メモリーに溜まった千枚以上の写真のなかから、百五十枚くらい適当に選んで、サービスサイズでプリントしてみた。プリントされたものを見たり、歩きながら写真を撮ったりしていて思ったのは、ぼくは、写真で何を撮りたいと思っているのかといえば、多分、光と地形(と、あと植物)に尽きるのだなあ、ということだ。いや、むしろ撮りたいのは地形で、光は、地形を撮りたいという欲望を駆り立てる刺激として作用していると言えるのかもしれない。写真を撮りたいと誘われるのは光の状態によってだが、フレームを決めるのは、そこの地形がうまく捉えられるようにという配慮によるみたいだ。光に誘われて外に出て、道を歩くことで地形を味わう。散歩するとはつまりそういうことで、写真を撮ることは散歩することと密接に繋がっている。
道が曲がっていたり、真直ぐだったり、下ったり上ったりしていて、建物がたて込んでいたり、視界がすっと開けたり、崖が切れ込んでいたり、切り立っていたり、ある道が思いもかけないところに繋がっていたり、そういうことは、目によって誘われるのだが、歩くことによって味わわれる。道の勾配について、目はしばしば騙されるし、それを繊細に感知出来ない。しかし、そこを歩く時、微妙な勾配を身体は感知して、それに合わせて姿勢やバランスをかえる。最近、散歩していて、ぼくはろくに風景を見ていないんじゃないかとさえ思う。勿論、見ることは重要だし、散歩で見られる世界の様々な細部による刺激が、歩くことを持続させ、周囲への関心を持続させる。でも、より重要なのは、歩くことであり、その場所に身体を通過させることの方にあるようなのだ。
『電脳コイル』で、古い空間にアクセスするためのパスワードが「道順」であることがとても面白かった。同じ場所でも、そこへと至る経路によって、何かが開けたり、開けなかったりする。これはまた地形とはちょっと別の話なのだが、いくつもの地形を通過する順番によって、空間として開かれているものが、その都度、別の質をもつ時間として経験される。イマーゴをもつ子供は、ざわめくささやき声というあやふやな印に導かれて、その経路を辿る。空間は、時間の外にいわば構造(というか、マトリクス)として存在し、しかし、一人一人の身体は、その都度、時間のなかで、特定の順路でそこを通過するしかない。そして、その都度の特定の時間として経験された「ある経路」は、一人一人の身体に、「ある経験の記憶」として無時間的なもののなかに蓄積されるだろう。
身体は決して一つではない。散歩をしている時、目は、光をまぶしく反射される樹の緑を見ているし、体全体は、坂道にあわせて微妙にバランスを調整している。皮膚は空気の冷たさや、しかし長く歩いていて背筋に流れる汗を感じている。手は、無意識に顔を摩っているかもしれない。そして、頭はぼんやりと、まったく別のことをまとまりなく考えていて、その間も心臓は、一定のリズムで血液を送り出している。複数の別の系列が、バラバラに同時に並列的に作動していて、つまり、複数の散歩が、一つの身体のなかで同時に行われている。そういう「もの」として、ある空間的な構造(地形)のなかを通過し、それを、その順路を、経験する。
地形は、そこを通過する(複数の散歩の集まりである)自分の身体よりも圧倒的に大きく、古く、密度あるものとして、身体の外にある。私の身体は、極めて限定された特定の経路-時間として、そのごく一部に、時間-経験として触れることが出来るのみだ。それにしてもそれは大き過ぎて、私は意識のレベルではそれをほとんど捉えることが出来ない。それを保存しておくには、私の脳の容量はあまりに小さ過ぎるだろう。だから、そのごく一部でもなんとか持ち帰ろうとして、多分、写真を撮る。
●夜、下北沢のトリウッドに『亀』(池田将)を観に行った。とても面白かった。
物語の次元だけを取り出すと、90年代に流行った群像劇とあんまりかわらないようにもみえるけど、描写のあり様の違いで、それがまったく別のものになっている。例えば、それぞれの人、一人一人の部屋の「散らかり方」の違い(同じ「散らかってる」にしても)を、的確に、それとして表現するのは、小説では困難だし、マンガとかでも描ききれないだろう。しかし、映画はそれをちゃんと映し出せる。しかし実際のところ、映画がちゃんとそういうことをしている例はほとんどないように思える(どこかで「映画的」という答えが先にあるようにみえたりする)。この映画は、そういうこと(こそ)をちゃんと見せている。群像劇はどうしても、ドラマが持続できないところを切れ切れにして目先をかえてごまかす、みたいな感じとか、辻褄合わせや作家の操作の恣意性とかの方ばかりが引っかかってしまったりしがちだけど(エドワード・ヤンでさえ、『クーリンチェ少年殺人事件』以外の作品では、どこか無理が感じられてしまう)、それぞれの部屋の散らかり方の違いとか、それぞれの人物のもっている佇まいや時間性(存在のリズムみたいなもの)が、それぞれにきちんと尊重されているから、そういう感じはほとんどない(新聞屋の父と不発弾の娘の関係など、設定だけみるとかなり危ういと思うのだが、そこがちゃんとしているから、ちゃんとしている)。このシーンが、この部分が、飛び抜けて凄い、とか、そういう感じではないけど、面白くない場面が一つもない、信用出来ない、ちょっと嫌な感じがする場面が一つもない、はじめから終わりまで全ての場面に納得出来る、という意味で、すごく充実していると思った。俳優にしても、嘘くさい顔の人が一人もいない。ロングショットが案外少なくて、割合と狭いフレームで画面つくっているように思えるのだが、それでも広がりが感じられる。出来れば、公開中にもう一度観に行きたい。