●いい天気だった。以下の写真は、すべて今日撮ったもの。
写真というのはぼくにとって、メモやスナップ、エスキースのたぐいよりはもう少しかっちりしたもので、でも「作品」というところにまでは至らない、その中間で行われる、まさにエクササイズの場なのだと思う。
(余談だけど、五枚目の写真の階段は、ぼくが書いた小説「「ふたつの入り口」が与えられたとせよ」(「群像」四月号)に出てくる階段です。)











●散歩には大ざっぱに二種類あって、一方は、周囲の景色や気候を感じるというよりも、歩くこという行為のなか、そのリズムのなか、あるいはそのリズムの変化のなかを動いているような感覚としての散歩。勿論この時も、周囲を見て味わってはいるし、歩くリズムやテンポの変化は、地形や気候、出来事によって左右され決定されるのだけど、そのこと自体が強く前景化されるというよりも、どちらかというとそれらは無意識のうちに作動(溶解)していて、「ある環境のなかで《歩く》」という行為の方に重点がある。
もう一方は、歩くリズムやテンポなどが成立しない程に、周囲にあるさまざまな表情や感覚がダイレクトに頭のなかに侵入してきて、感覚としては、ぼこぼこに殴られながら引きずり回されているような散歩。足元にある土の堅さや柔らかさ、手に触れた雑草の表面の産毛の感触、空気のなかの埃の量の変化、虫の声と鳥の声の呼応、ギラギラしたアスファルトに暴力的に陥入する影などが、鋭い針が突き刺さるように頭のなかに次々と刺さってくる。こういう時は、坂道を重そうに上る自動車から直接「疲労」を投げつけられ、あまりにも鮮やかな花の色に吐き気を感じ、耕された畑の土の表情が金属的に感じられ、その感触が寒気として背中から這い上がる。野球をしている子供たちの声を聞くと自分がグラウンドくらいに広がり、飛んでいるカラスを見ると自分と「飛行」との区別がつかなくなるし、黄土色がまじった緑の葉を見ると自分と「緑」との区別がつかなくなる。
今日は後者の感じで、昼過ぎには部屋に戻ったのだが、疲労を感じてちょっとだけ寝ようと思って、目が覚めたら夜七時をまわっていた。
●おまけ写真。
今、美術館で作品を展示していて、しかしどういう展示にするのかは実際に現場に行ってみなければ決められないので、展示している作品の二倍以上の作品を持って行っていて、展示できなかった作品は美術館の倉庫に一時的に保管してもらっているのだけど、その作品たちがない分、今はアトリエのスペースにすこし余裕が出来ていて、この機会にと、アトリエを整理し直している。
で、こういう機会でもないと過去の作品をあらためて見ることはあまりない。
以下の写真の作品は(整理しながらアトリエで適当に撮ったので光の状態もよくないしフレームも切れちゃってるようないい加減な写真だけど)、2004年につくったもので、この辺りの作品がぼくにとって大きな転機となっている。今の作品に直接的に繋がっている最も初期の頃のもの(「plants」シリーズがはじまった)。とはいえ、今とはずいぶんとつくりが違っているなあと思う。抽象表現主義的傾向が、ここではまだまだ強く残っている。それでも、この頃の作品は自分としては今でも愛着があるし、かなり好きです。