栃木県立美術館の「画像進化論」は、企画者の意図がどうあれ(図録に掲載されている山本和弘によるテキストにぼくはほとんど同意できないし、つっこみたいところも多々あるのだが、それでも)、いろんな作品が観られて楽しかった。やっぱホックニーのジョイナー写真はすげえと思ったし、いままであまり興味がなかった山中信夫を面白いと発見したりできた。ただ、気になったのは、キュレーションは、どこまでやっていいのか、という点だった。
展覧会を企画し実現するということは、ある文脈をつくり、その上に作品を配置してゆくことになる。つまり、ある企画された展覧会のなかで展示される作品には、あらかじめ企画者による色付けがなされている。このことは否定しようのない事実であるし、それを否定しても仕方がない。作品が具体的に(空間上、文脈上の)「どこか」に配置されなければならない以上、完璧に中立的な展示、あるいは、完璧に作品に忠実な展示というのは原理的にありえない。あるいは、作品が、企画者によってあらかじめつけられた文脈のなかに埋没するのか、それを越え出る別の可能性を示せるのかは、個々の作品の力(と、個々の観者の「見る力」)にかかっている。
とはいえ、展覧会の企画がつくる文脈上に作品を置くことと、企画者が作品をモチーフにして勝手にインスタレーションを行うかのような展示をすることとの間には、一線がひかれなくてはならないと思う。企画者が行うのは文脈をつくることで、作品そのものをつくることではないはず。
例えば、川島理一郎のベタでガチなヌードのデッサンの隣に、福田美蘭のフェイク・ルノアールが展示されたり、ギュスターブ・ドレとジョン・マーティンの「失楽園」をモチーフにした銅版画に挿まれるようにして、片瀬和夫の写真のプリントが展示されるというのは(その対置の効果が面白いものかどうかは別として)、まあ、アリだとは思うけど、ボイスの壁掛けの作品と若江漢字の床置きの作品が、まるで一つの作品であるかのように合わせて展示されていたり、森村泰昌の対になる二点の作品を壁の両端に配し、真ん中に石原友明の作品を置き、その左右に二つの展示台を置いてその中に本を展示して、まるで祭壇のようなシンメトリカルな展示空間をつくるというのは、やり過ぎというか、やってはいけないことなのではないかと感じた。これでは、文脈を提示するというのをこえて、作品をモチーフにしたコラージュ(インスタレーション)をつくってしまっている。
勿論、前者と後者とを明確に分ける基準などないし、どこでその線を引くのかは、人によってそれぞれ異なるとは思う。でも、だからこそ、その「一線」には意識的で、慎重であるべきではないかと感じた。
●例えばゴダールの『映画史』は、そういうことをいけしゃあしゃあとやってしまっているのだが、それはゴダールが、映画史を記述し、配置・確定する立場にあるのではなく、あくまで「一人の映画作家」として、映画史によって記述され、配置される立場にいるからこそ、許されるのだと思う。つまり『ゴダールの映画史』は、映画史のなかの「一つの作品」であって、記述され得る複数の映画史(メタ言説)のうちの一つではない。
(とはいえ、メタ言説としても読めてしまうという弱さは確かにあって、だから、ぼくは『映画史』はゴダールの作品のなかでは良いものとは思えない。)
あるいは、福田美蘭の作品も、そういうことをいけしゃあしゃあとやっているのだが、それも、福田美蘭が、評価し配置する側にいてそれをやっているのではなく、自分自身も、自分が利用している多くのほかの作品(アーティスト)たちと同等の、評価され配置され(利用され)る「作品(アーティスト)」という側でそれをやっているからこそ許されるのだと思う。つまり、自分自身がプレイヤーとして決してメタに立てない位置で強引にメタをやっている危うさや捻じれがあるからこそ、メタ言説の単調さからかろうじて逃れ得ているということ。
●つまり、一線を超えるのであれば、キュレーターという、評価し、配置する位置ではなく、アーティストという位置(評価され、配置される位置)にまで「降りてきた」上で、してもらわないと、と。