●引用、メモ。『ガブリエル・タルド』(中倉智徳)、第一章「夢見る個人と社会の法則」より。
タルドにおいて「個人」は、(ベンサムが想定するように)合理的、功利的に行動するのではなく、欲望を大前提に、信念を小前提にして導出される実践的三段論法に従って行動する。つまり、快の増大や苦の縮小のためではなく、快がなかろうが苦があろうが、信によって行動する。そしてその信念や欲望は、他者から「模倣」によって与えられ、寄せ集められたものにすぎない。だが、その模倣されるもの(信念や欲望)は、誰か個人のうちで発明されたものであり、発明は、常に誰かのうちで起こっている。こうした見方は、少なくともぼくにとってはとても納得がいくものだ。
《タルドの想定する人間は、自らの意図や利益さえ、それが「われわれのもの」であるかどうか定かではない。タルドの人間の目的は、自らがそう信じているということによって支えられているにすぎない。それは、他者からの影響を受けることによって「寄せ集められた」観念の断片でしかないのである。(…)タルドの人間が非合理的であるというとき、ときおりの誤認識、情報の不足、心理的錯覚といったものによってときおり非合理的な判断を犯してしまうといったものではない。むしろその「非合理的なもの」こそが、「あらゆる論理、あらゆる必然性を本質的に支えている」のである。タルドは(…)、それが自らの利益だという一見合理的に思われる信念そのものが、私のものである以前に、合理的であるか否かを問わずに他者から模倣した信念であるほかないと考えるのである。ある行為が合理的であるように思われるのは、それを合理的であるという信を、すでに受け入れているからでしかない。》
《タルドによれば、発明と模倣は、あらゆる社会的領域において生じる。言語的、宗教的、行政的、法律的、道徳的、産業的、芸術的な観念や意思、判断や企図も、すべてが発明され、模倣されたものである。「社会的にいえば、すべてのものは発明か模倣にほかならない」のである。
そして、「発明され、模倣されるものとは、常にひとつの観念や意思、判断や企図である。そこには、一定量の信念と欲望が表現されている」といわれているように、発明され、模倣されるものとは、信念と欲望である。そして信念と欲望は、人の行為の潜在意識的な前提であり、すべての行為に関わっている。》
●信念と欲望が、「潜在意識的な前提」であるかぎり、それは「内省」によっては捉えられない。
《この模倣的であるという特徴を理解するためには、内省するだけではわからない。むしろ、自分たちからかけ離れた古代の人びとや異質な文明の人びとについて考察すべきであるとタルドはいう。その距離によって、古代の人びとや異質な文明の人びとは、なんらかの催眠のようなものに従って行動しているように、あるいは、白昼夢を見て行為しているようにみえるだろう。社会的であるということは、このような共有された夢をみることである。自発的であることとは、それが発明である場合以外は、そのように信じているだけでしかない。(…)実際には、「文明化されればされるほど、模倣的になればなるほど、自分が模倣していることを忘れている」にすぎないのである。》
●タルドにとって社会とは夢であり、社会的人間は夢遊病的である。そして、ただ「発明」が起こる時にだけ、その夢の外に出る。では発明とはどのように起こるのか。発明は出会いであり、偶然である。
《発明は無から生じるのではなく、以前に模倣されているものを要素とする。発明は、ある脳内での、模倣されているものの「幸福な交雑」である。(…)タルドにとって、すべての発明と発見は、過去の模倣を要素とする、複合的なものである。》
《過去の模倣の複合をなす「幸福な交雑」を行うためには、ある模倣の流れが別の模倣の流れと出会うか、もしくはある模倣の流れが強烈な外部の知覚と出会うことで、既存の観念を思いがけない側面から照らすことが必要だからである。これらの出会いによって発明を行う時、人は社会的であることをやめて、すなわち、夢をみることをやめて、新たな夢を創りだす。》
《発明は、一瞬だけ夢から覚め「超-社会的」になった人間によって成し遂げられる。そして、このようにして発明された夢が、また別の個人へと模倣されてゆくことによって、その夢の彩りを変えてゆくのである。(…)社会に暮らす個人は、ある一人の影響だけを受けるといったことはほとんどなく、むしろ相互に影響を与えあっている。タルドによれば、社会に暮らす個人はそれぞれに催眠術者であり、また同時に催眠にもかかっているのであって、催眠状態と覚醒状態のあいだの「夢遊病的覚醒」の状態にあるのである。》
《過去において偶然的な発見であったものが、後に必然的で論理的なものとしてみなされることがある。(…)この証明の発見は論理的に正しい必要があるが、論理的な正しさだけではその発見の実現はできないのであり、なんらかの着想を必要とする。そして論理的な正しさに従っているだけでは、なぜその着想がそこで得られ、別の着想ではなかったかという問いに応えることはできない。その着想は偶然的である。しかし、論証されたあとは、必然的なもの、論理的なものとして強いられることになる。》
●そして、発明の力能は想像力である。芸術家たちの「風変りな幻想」は、想像的なものの科学的な探索である、と。
《発明を行うためには、いま信じられていること、いま欲せられていることとは別の、異なる信じられそうなもの欲せられうるものを「想像」しなければならない。》
《パスツールは、細菌の自然発生が起こらないことを、実験によって発見したのではない。仮説を先ず想像し、発明したのである。そして仮説に基づいて実験を組み立て、仮説を実験によって証明してみせたのである。》
《科学的な発見を行った者たちは、実験以前に、証明するための仮説を発明しなければならない。このとき発明された仮設は、それまで知られていなかった三段論法を構成していると、タルドは洞察する。発明も三段論法を通じて位置づけられることが読み取れよう。》
《(…)タルドは、発明は、「指導的で、決定的で、説明された力」であるが、「雪崩を引き起こす小鳥の羽ばたき」でしかなく、模倣という雪崩こそが、社会変動をもたらしているのだとしている。》
●タルドは「模倣の法則」として、「範例の普遍的拡大」「一方向から双方向へ」「可逆的なものと不可逆的もの」の三つを挙げるが、ここでは二番目について注目したい。
《相互的なものである交換の前には、必ず贈与あるいは強奪という一方行的な関係が先行しており、それが双方向化することによって交換に至ったと考えるからである。同様に、「人間狩り」から戦争へ、「恭順」から「自発的同意へ」、「特権」から「万人に平等な法」へ、「奴隷制」から「産業的協働」へ等の移行が起こったと推察する。(…)二者関係において完全に等しい関係性というのは恒常的にはありえない。しかし、それが双方向化し、あるときは一方が他方に従い、ある時は逆転し他が一方に従うことが起こりうるのであり、この動的な関係が、平等であるといわれる。動的な「平等を、私は相互性として理解している」と述べている。)》
●ここからが重要なのだが、タルドにおいて社会の変革は、「発明と模倣」という共振、調和によって起こるものとされる。これは、矛盾・対立の止揚だとか、階級闘争というコンフリクトによって革命が導かれるという考えとは根本的に異なっていると思われる(「発明」はあくまで個人という場において生じるとされているし)。
《タルドのいう模倣には、ルネ・ジラールのいう欲望の三角形のように、根底に暴力があるのではない。欲望や信念を共有する人間は、それぞれの仕方でつながっている。欲望や信念は、模倣を通じて個々人のあいだに一致をつくりだす。ドン・キホーテがアマデュース・デ・ガウラの兜をほしがるとき、彼はその伝説の騎士と確かに結びつけられているのであり、ドン・キホーテに魅せられた読者である人びともまた同様である。》
《(…)反復しているものが対立するのは、類似しているからである。タルドにとって対立とは、差異があるだけでなく、皮相な仕方で類似している二項のあいだで生じるのである。注意しておくべきなのは、タルドが対立概念を、「状態」の対立ではなく「力」の対立と述べている点である。》
《タルドが、「反復されるのは調和である」と繰り返し述べていたことを指摘しておこう。》
《タルドにおける調和は、実現することを目指すべき理想の唯一の状態ではない。反復されるものが調和なのであるから、調和はすでに無数にあるものである。(…)これらの体制は、作動するが「完璧に作動する」わけではないシステムである。例えばその体制の一つひとつが、調和なのであるが、すべてがうまくいっているわけではなく、そこここに対立を残したまま作動しているのである。一定うまく作動しているシステムとしての調和が、より対立の少ないものになることを「調和化」と呼ぶ。》
●「差異がアルファでありオメガである」この世界において実現されるべき、「差異そのものの差異化」としての「調和」というヴィジョン。
《論理的な結合が、調和を生じさせるのであり、論理的な対立が、不調和を生じさせるのであり、ここでの社会の弁証法、すなわち社会論理学は、この不調和を調和に変えるためのものなのである。タルドはこの過程を、「差異そのものの差異化」と述べている。タルドは、「差異がアルファでありオメガである」が、最初の差異と最後の差異とでは、大きく異なっているという。タルドにとって社会論理学に基づく進化は、矛盾の解消でもなければ一つの完全な生命体へ向かうことでもない。それは、はじめは対立しあっていたり無関係であったりした差異が、互いに協力的で、調和的な差異へと変化していくことである。「われわれは、むきだしの差異が---けばけばしい原色のような差異が---ちりばめられた時代から、繊細な差異が調和する時代へと導かれている」のである。社会論理学、社会目的論が目指すのは、この「差異そのものの差異化」「繊細な差異が調和する時代」を自覚的に追及することにほかならないのである。》