●ぼくは、例えば『まどか☆マギカ』にかんしてはいくらでも悪口が出てくるくらいのアンチではあるけど、そのように、ある作品を批判しようとして何かしらの正当性のある論理を組み立てようとする時、そこにどうしても付随して起動されてしまう「ブラックなモード」をどう処理するのかということは、とても難しい問題だ。そこに「悪意(意地悪なモード)」が知らぬ間に発動してしまっていることに気付いて愕然とし、冷や汗が出る。そしてさらにやっかいなのは、批判的な論理を組み立てようとしている時、それが作品に対する批判をしようとしているものなのか、その作品をほめている人たちをやっつけようとしているものなのかが、いつの間にかごっちゃになってしまいがちだということだ。ある批判が、世間の圧倒的な評価に対する違和感として表明される時、それを逆転して溜飲を下げたいという欲望とどこかで通じ合ってしまう。でも、溜飲を下げることなどが目的ではないはず。
人はどうしても他者に対して存在し、他者との関係のなかに自分の位置を見出そうとする。そして人はこのような関係のなかで、何かに駆り立てられるような感情をもつ(そのこと自体がすべて悪いということではない、たぶん)。その時、何かに対する批判が誰かに対する対抗意識とすり替わり、批判が目的化してしまう。そのようにして、人間関係に引きずられて判断を間違う。人間関係に判断が引きずられるというのは、空気を読むとか同調圧力とかなあなあの関係になるとかいうことだけでなく、誰かに対する対抗意識とか反発心とか敵意とかが駆動することによって起こる(そしてそれは往々にして妄想に近い「脳内位置取り」に強いられたものでしかなく、実際にはその相手に対する敵意も利害対立も実はなかったりする)。前者の同調系よりむしろ、確実に意欲を鼓舞する後者の対立系の方が問題の根が深いように思う(たんなる敵意が義憤にすり替えられたりする)。たとえは、誰かを出し抜いてやろうというよこしまな欲望をもつ時、人はしばしば冴えた悪知恵を思いつくし、勤勉にすらなるだろう。敵意はそのようにして創造性を刺激しさえする。しかしその(他者に対して自分を際立たせようとする類の)創造性は、結局のところ「人間関係」という閉じた関係のなかで作用するものでしかない。つまり、世界に(宇宙に)開かれていない。だから「わたし」を解放しない。
(自分は群れのなにかあるのではない、孤立した個であるのだ、といったとしても、その個が、例えば権威や権力に国家に対して――抗して――あるとすれば、それで既に「関係−位置取り」に巻き込まれている。)
論理の基底面で知らぬ間に働いてしまうこのような悪意や敵意といった感情の駆動を、人はしばしば軽く見積もる。自分は感情を括弧に入れて冷静に、論理的に思考していることをあまり疑わない(というか、疑えない)。相手のことはよくみえても、自分が何にとらわれているのかはなかなかみえない。これは、何かを貶すときだけでなく称える時にも作動する。つまり、何かを称えることが、ただ称えるのではなく、それを貶している誰か(あるいは一般論)を論破することに置き換わってしまう時に、それは起こる。何かを論破するために論理が組み立てられる時、「論破しよう」という欲望によってその論理は既に人間関係(によって駆動する感情)に絡めとられている。それは結局、その「何か」についての探求ではなく、「何か」をダシにした人間同士の関係の争いでしかないものとなる。
批判というのは「吟味する」という意味だという基本に立ち返るなら、批判を成立させるためにはまず競争(闘争)的であることをやめなければならないのではないかと思う。闘争的である限り、「人間関係の(位置取りの)内」にあるしかないのだから。これは、人間という種が、生存競争を勝ち抜くことによって現在のように進化したということを考えると、恐ろしく困難なことであるように思われる。あるいは、人は社会のなかに居り、その社会が常に多数の闘争の結果としてかたちづくられるという事実を考えると、さらに困難なことのようにも思われる。だけど、闘争心というものをすべて捨てることは不可能だとしても(闘争的な遊戯を楽しむことは悪ではないだろうし、それは人間にとって必然でもあるだろう)、何かを考えている時に、その考えを走らせている基底にある感情のなかに「闘争性」の駆動がみられるのかということについて、敏感になることは可能なのではないか。自分の思考にブラックモードが混じっていると感じた時に、それを放棄してはじめからやり直すことならば可能なのではないか。
(あるいは、遊戯的な議論の創造性ということは考えられるかもしれない、闘争性をあくまで遊戯的な範囲に限定して解放することで、思考の創造性を刺激するとか。ゲームやスポーツなどはそういうものではないか。)
そのようにしてはじめて、人間関係の内に閉じられたに世界ではなく、人間もその一部であるような世界のあり様について、吟味することが可能になるのではないか。
(でもそうなると結果として、社会的なインパクトは限りなくゼロに近づいてしまったりする。)