●アートが閉じてる、という話はやめた方がいいんじゃないだろうか。「閉じている(ように見える)こと」が、そのまま悪いことであるかのように言うのは思考停止だと思う。たとえば、芸術の特徴は、純粋な観客を必要としないという点にあると思う。芸術の観客はすべて(少なくとも潜在的には)「制作者」である。「人を詩人にするものが詩だ」(佐藤雄一)という意味で。つけ加えれば、「次の作品」をつくろうと(何かしらの意味での「制作」を行おうと)思っている者は、既に実績のある大家であろうと、未だ何ものでもない者であろうと、すべて等しく「潜在的な制作者」だ。
だから芸術は、けっして「現在」の市民のためのものではない。それは、「現在」の潜在的な制作者たちのためのものであり、それは結果として「未来」の市民たちのためのものとなるはずだ。国や地方公共団体が芸術にお金を出すのは、「現在」の市民生活を豊かにするためではなく、「未来」の市民の生活のためであるはずだ。
(それはおそらく、科学の基礎研究と似ている。基礎研究は現時点では何の役にも立たないが、それが未来のある時に、ある特定の技術に使用が可能だと発見された時、社会や人々の生活を大きく変える。しかし、どの研究がそうなるのかは、それが研究されている時点では誰も知らないから、基礎研究を止めると技術進歩も止まる。)
だから、芸術をめぐる言説が、制作者たちと潜在的制作者たちがまるで宇宙人が喋っているような言葉で喋り合っているようなものであることそれ自体には、何の問題もないはずだ。それが地球語と通じ合わずに齟齬をきたすのは当然だろう。それは「閉じている」のではなく「異なる言語を使っている」だけだ。それを見事に地球語に翻訳してくれる人がいてくれるとしたら、潜在的な制作者を誘惑する(増やす)という意味で有効であり、もしかすると経済的にも有用であるかもしれず、大きな意義があるとは言えるが、しかし、かといって宇宙語が地球語に譲歩する必要はない。
●でもそれは、芸術は最強で何ものにも侵されない特権を持つ---とにかくアートは偉いんだから何でも許される---ということではなく(そういう「オラオラ系表現者」は本当に嫌いだ)、逆に、芸術は最弱で、他者からの批判や攻撃や無関心に対してまともな自己弁護さえもなかなかできない微妙なものとしてしか成立しないということだ。だから、(秘密結社的に)できるだけ地味にこそっとやる方がいいように思う。
(それは、「内輪の言語」なのではなく、既にあるものとは「別の」独自の文法を必要とする---別の論理を追究するために必要な---言語であるので、他者に対する説得力をなかなか持てないものなのだ。でもそれは、どこか先のところでは繋がっているはずだという感覚----信仰かもしれないが---があるからやっていられるわけだが。芸術が、結果として「未来の市民」のためのものであるはずだというのは、そういう意味だ。)
そのように「最弱」である芸術(の言説)を、社会や現実へと無理やりに「開く」ことは、「制作する」ことを困難にするという意味で、望ましいことではない側面の方が大きいようにぼくには思われる。制作の時間は、観測されずに干渉し合ったままの量子状態のようなもので、適切でないタイミングややり方で下手に観測されると台無しになると思う。
●芸術が未来への投資だとして、しかしそれは、市場で行われるような投資ではないはず。我々が今、美術館でゴッホの作品を観られるのは、ゴッホの弟が必死で兄の生活を支えたからであり、セザンヌの絵を美術館で観られるのは、銀行家であったセザンヌの父親の財産のおかげであって、彼らの作品が市場で高い値をつけたからではない。弟や父は、将来---芸術の未来---への投資として兄や息子に金を出していたのではなく、ただ、生活力のない兄やバカ息子を仕方なく養っていたということであるはずだ(ゴッホの弟はゴッホを尊敬していたようだけど)。
●とはいえ、お金持ちの子供でもない限り、なんとかしてお金を稼がないと死んでしまう。そして、お金をまわしたり、発表や発言をする場を提供したりする「人事」にまつわる権力を持った人と、そのまわりの人間関係がかなりの程度で閉じているというのは事実だろう。だから、「閉じていることへの批判」や「開こうとする実践」は、そっち(現実的な人間関係)の方に向かわないといけないのではないか。それは作品や言説の問題ではなく、実際の社会的な権力や政治や経済の問題で(前者と後者とを明確には分けられないという立場も分かるが、しかしぼくは、分けておく方がよいと思う)、まさに「業界内の権力闘争」としてベタになされるしかないと思うし、ベタにやればいいんじゃないかと思う。
(しかし、時代の変化やある種のテクノロジーが、権力闘争などとは無関係に、関係のあり様をかき回して再編成を促すことはあり得る。)
●でも、一方で猛々しく戦略的に権力闘争する者も、もう一方で、「制作者」としては「最弱」であるしかないので、制作時はそこから離れた秘密の場所で(必ずしも一人でなくても、秘密の仲間たちと共にでも)、こっそり、ひっそりと、心細く「制作する」しかないと、ぼくは思う。
芸術は(あるいは「制作は」)、「現在」に属していないからこそ、「現在」という時間的断面で切ってみた場合には「閉じている」ようにみえるかもしれない。でも、「閉じている」ように見えるだけで、実際は閉じてなどいない、はず。
●しかし、そんなこんなもすべて、近い将来に人工知能によって一挙に無意味化されるかもしれないという無力感も頭から離れないが。
●下の写真は、ドローイング(の部分)。夜のアトリエで、ガラケー・カメラで撮ったので、暗いし軽くボケてますが。
(四枚目は、鉛筆で描かれた絵の具をのせる前の下絵。これは、あらかじめ歪んだ時空のグリッドのような機能をもち、ここから形を拾ったり、潜在的な形を見つけたり、あえて描かれている形を裏切ったりして、線や色を一つ一つ置きながら、それらの関係を探り、関係をつくっていく。一つのフレームとして、最低限の全体的な統合性をもたせながらも、あくまで部分を優先させて、部分として面白い色や形が、たまたまギリギリに破綻せずに一つのフレームに収まっているという状態---部分の集まりでも、でも全体性としてでもなく成立している状態---を目指すのだけど、タブローに移行した途端に、描いているぼく自身の意識のなかで「フレーム」の力が急に強くなってしまって、戸惑っている。)