●展示などでばたばたして中断していた『フィロソフィア・ヤポ二カ』(中沢新一)のつづきを読み始める。第一部、種の論理までを読んだ。
この本はいろんな意味でガチな本という気がする。論理的にガチということは勿論だけど、もっと世俗的な次元で、例えば、オウムへの関与に対する総括みたいな意味でもガチだし、最近の「緑の党」や「野生の科学研究所」などの構想の理論的な根拠としてもガチな感じがする。こういう本が2001年の時点で出てたのかあ…、と思う。
中沢新一は、《矛盾律による反省を容れざる》、論理に先立つ《先論理》とでもいうべきもの(これが「種の論理」なのだが)を、《生命そのものの論理》とか《生命の直接態の表現》というような言い方をしていて、このような言い方にちょっと危惧をもつ人もいるかもしれないのだが、ここで「そのもの」とか「直接」とか言われているのは、実はそれ自体としてハイブリッドである「媒介」のことなのだった。媒介こそが、直接的で生々しい(媒介以前に根拠はない)のだ。例えば、フクロネズミの神話を分析する部分などに、それははっきりと表れていると思う(この部分の分析はラカンの疎外と分離に似ている気がする)。実際この本は、田邊元(と、その裏に明らかに響いているラトゥール)の媒介によって、ヘーゲルラカンドゥルーズが混合されているかのような、あるいは構造主義ポスト構造主義との折衷(ハイブリッド)のようなことが実現されている。
《ビオスと呼ばれる個体的生命は、無形態・無形相の類的生命であるゾーエーの「分有」として出現する、と考えられていた。しかし、そこに個体的生命の形相を与える媒介の原理がなければ、ゾーエーがビオスに否定的な転換をはたすということは考えられないのである。この媒介の論理こそが、形相をあらわすエイドスであり、そのことばは同時に類と個とを媒介する「種」に他ならないのだ。プラトンイデア論は、そのような生命論を背景として、構想されている。イデアとはゾーエー(生命の一)とビオス(存在の多)の中間的な「ハイブリッド」体であり、いわば思想における「鯰人間」のような存在なのだと言える。》
媒介としてのイデア、そして種。しかしここでゾーエー—イデア—ビオス(類—種—個)という平板な階層関係があるのではなく、あくまですべての基体としての種(媒介)がまずあって、そこから否定を通じて個があらわれ、種の否定としての個の自由によって類へと跳躍されるという展開が描かれる。哲学用語にはそれほど詳しくはないのだが、ゾーエーとビオスというのはおそらくハイデカーの存在と存在者のような感じなのだろう。それだとやはりゾーエーは根源のようなイメージになってしまう。ここで類—種—個となっているのは、種と個とが互いを否定的に媒介し合うことを通じてはじめて「類」が創造される(あるいは、そのような次元が切り開かれる)ということを強調するためもあるのだろう。この本の特筆すべき点は、ドゥルーズだったら潜在態と言うようなことを、媒介という位置に置いた(あるいは重ねた)ことによって、何というか「動き」が出た感じがするところにあるんじゃないかと思った。
●では、基体としての種とは、どのように描かれるのか。ここでは、いわゆる「差異の体系」的なレヴィ=ストロースによるトーテミズムや神話の分析では《共同体と個人とがなにか共通の実体を共有しているかのよう》な《「内密秘奥の紐帯」》を捉えきれないとして、そのような体系には《その前体系ないし前論理というものがあり、それは静態的な差異の体系ではなく、緊張をはらんだ力学的な多様体の形をしている》とされる。
《種は全く相反対する力の対立抗争によって常に分裂しようとしながらしかも反対にその分裂に対立して統一を保とうとする力のはたらく、二重の対立性を含むところの不断の運動であ》る。
《例えば引力と斥力、圧力と張力とのごとき交互態は、それが力のはたらく状態に保たれる限り、相反対する原動と反動とへの力が互いに否定し合いながらしかも合両立し共存するのであって、もし一方が他方を否定し尽くせばもはや力のはたらきは消滅し単なる運動が起こるのである。しかもまたかように共存するものが互いに否定し合い相反対するのでなければ力は消失する。かかる否定的対立と両立共存との直接なる統一であるから、それは運動の生起がないかぎり即ち力の交互作用の均衡が破れない限り、表面上なんらの変化が現れないけれども、それにもかかわらず、力のはたらき合う空間即ち力の場は、つねに極微的仮想的なる運動の絶えず間断なく無限に生起せんとしては抑圧せられる激動の直接統一なのである。》
このような、多様な運動を潜在的に孕みつつも、それ自体は高い緊張がみなぎる静謐状態である「種」の構造には、二つのことなる対立(否定)の軸が立体的に重ねられる。一つは、種という統一体のなかで相対立する諸要素が対立によって無限に分割され(繰り広げられ)、それらが横並びに並立している、いわば「差異の体系」に近い構造の軸(外延的対立)がある。もう一つは、それら分割されてゆく個々のそれぞれの場所でもまた、「種」全体がそうであるように、対立する働きと統一する働きとが高い緊張のなかで力の張り合いをしているという、いわば強度の軸(内包的対立)である。
後者の内包的対立について田邊は赤と青という色彩を例に挙げて次のように描いている。《赤自身が自己の両立しがたき青を自己の内部から発展せしめ、また青が自己の否定者としての赤を自己の内部から産出するというごとき事態にして、始めて自己否定的ということが出来るであろう》。そしてこのような《自己否定的》な関係が、そのまま「種」と「個」との関係として描かれることになるだろう。
●だが「種」はそれ自身としては決して存在に達することのない《非有》である。この非有という性格こそが、媒介としての「種」の特徴であろう。
《非有は空虚の謂いではない。かえってそれは存在の基体であり根底である。しかしそれは存在へ向かう一部を他部が交代的に限りなく否定するために、存在に達することが出来ないところの、存在と非存在との張り合いなのである。……即ち存在は、直接なる肯定でなくして否定を媒介とする肯定であり、かえって非存在を自己に含みてこれを止揚する存在たる外ない。》
中沢新一はこの《否定を媒介とする肯定》としての存在を「パイ」に例える。《よく練られた小麦粉の薄片を伸ばして、畳み込むと、内側に空気の薄い層ができる》。このプロセスを何度も繰り返し、それを焼くことで、《そこに有でもなく非有でもな》い、その中間のようなサクサクしたパイが出来上がる。
●では、決して存在に至ることのない非在としての種から、どのように「存在するもの」としての個が生まれるのか(種と個にどのような「自己否定的」関係があるのか)、については、つづく。