●『「超」批評 視覚文化×マンガ』(石岡良治)に収録されている「まど☆マギ」論(「魔法少女たちの舞台装置」)を読んだ。「まど☆マギ」を誉めている文章は他にもいくつか読んだけど、はじめて成程と納得させられた。「まど☆マギ」本編は、おそらく三回くらいは観ているのだけど、なんでこれをみんなそんなに面白いというのかよく分からなかったのだけど(何が面白いのかよく分からなかったから何回も観た)、もう一回観てみようかなという気になった。
●ということで、一話から三話を観てみたのだが、やはり、それでもなお、ぼくにはどうしても好き嫌いのレベルで「まど☆マギ」には受け入れ難い感じがある。何がひっかかっているのだろうか。
●下は、「週間読書人」に掲載された、石岡さんの前著(『視覚文化「超」講義』)への書評です。ここに転載しておきます。

『視覚文化「超」講義』


古谷利裕


核爆弾からスマホまで、現代生活の基盤となる多くの技術を生んだ天才フォン・ノイマンは、自らあみ出したゲーム理論に基づき、ソ連への核による先制攻撃を繰り返し提言したという。コンピュータやインターネットの開発が米軍の存在と深く関わることは周知の事実であり、我々が享受する生活を支える基礎技術の背後には軍需産業がある。つまり戦争やアメリカと不可分である。現代文化はその技術を基盤とする。
この事実は、文化を享受しているのに国家や戦争に無関心なのはおかしいという結論を必ずしも導くものでない。逆に、技術や文化においては、既にあるものを使い、流用し転用して用途を変えてしまうことが可能だということを意味する。本書は、まるでマッドサイエンティスト分子生物学的交配実験による爆発的な種の増殖を観察・記述するかのような手つきで、現代の「視覚文化」が、様々なありものを転用し、転用し合うことで発展・変容・増殖する様をグラデーションとして描き出す。
冒頭近くで、十九世紀の教養主義と軍隊との親近性が指摘される。それは交叉する二つの意味をもつ。教養主義は必ずしも肯定的な側面ばかりではない、そして、軍隊は必ずしも否定的な側面ばかりではない。軍隊には、貧しい出自でも出世可能である「平等」があり、この観点から見れば肯定的に捉えうる。その平等は、軍隊の否定的側面とは無関係に別物へと転用可能だ。例えば、パウエルが国務長官になり得る環境がアフリカ系大統領の実現につながる、など。否定的なものの底にも肯定的なものへの通路があり、逆もある。
本書では様々なレベルの対立する二項が検討される。人文と人類、アートと大衆文化、自然と人工、現場感と分析(批評)、サブカルとオタク、アバンギャルドキッチュ、ナラティブと視覚性、カルチャーとホビー、手描きと3DCG……。一般にこれら二項が問題化される文脈において後者は前者に劣るとされ、それに対し価値の転倒が主張されもする。本書が行うのはそのどちらでもなく、しかし対立(差異)の解消でもない。ある文脈を設定する限り二項には解消しがたい差異が生じる。だが、双方には穴が空いていて交叉してもいる。本書では「違う」と「通底する」の両者が検討される。「違う」ままで「通底する」という交叉が転用だ。
視覚文化における「情報過多」という事態を、進化や生態系の舞台が自然から分子生物学的実験室に移行した世界という比喩で考えると、本書を貫く汎媒介主義、汎まがいもの主義を捉えやすいのではないか。多様な交配(転用)が可能で、かつ自然選択のパラメータも調整可能な場。タイムスケールさえ変更可能。実験を行う時に選択される基本設定=レギュレーション(規則群)によって、異なる文脈(系統)、対立(捕食関係)、種の分布、が生じる。個々が設定する変数=媒介の種類とその比率により、其々が異なるモロー博士の島に住む。
だが、この比喩は暴走気味だ。本書には極端に走らないバランスと節度が常にある。文化を可能にする技術の多くが軍事由来である事実や、背後にある現実的な権力関係の想起の必要性が、繰り返し促されよう。
本書の白眉は、カルチャーを相対化する「ホビー」、そして、作り手と受け手の対立を相対化する「ファンコミュニティ」への注目だろう。コミュニティへの着目によって、モローの島が共同で運営され、一人が複数の島を行き来できるというイメージが得られる。そこで、多様な島の分布と、その間の移動の仕方の探求が要請される。