⚫︎YouTubeに、かなり高画質の『火まつり』(柳町光男)があったので観た。傑作というより、よくぞここまで頑張って作った、とという超力作だった。80年代でなければありえなかった、という種類の作品だと思う。この映画、こんなに凄かったっけと改めて驚いた。
これは1985年公開の映画で、柳町光男のこの前の作品が1982年公開の『さらば愛しき大地』だ。「さらば…」の方は、ATG制作でお金がない中で頑張って作っているという迫力があったが、この作品はおそらく西武グループによる潤沢な予算があり、まさに「お金があった」からこそ可能になったのだろうという凄さがある。たんじゅんに、映画においては、丁寧な、そして気合いの入った「描写」を行うには「お金がかかる」という事実を見せつけられる作品でもある。
もちろん「お金」だけではなく、小川紳介の映画のカメラマンである田村正毅の撮影によって「山」の素晴らしい描写が可能になったという側面も大きいと思われる。
(一つ惜しいと思ったのは、二時間では短すぎるということだ。ちょっとダイジェストっぽくなっている感じがある。これだけの「(経済力に支えられた)描写力」があれば、3時間でも全然いけたのではないかと思った。主人公と家族の描写がもっとあっていいし、「姉たち」の描写がもっとあっていいと思った。「火まつり」の描写も拍子抜けするくらいあっさりしている。ちょっと勿体無いなあ、と。)
中上健次の作品は、『十八歳、海へ』から『軽蔑』まで、意外に多く映画化されているが、映画になると中上感が薄くなるという傾向があり、中上健次のにおいが濃厚に出ているのはこの映画くらいではないかと思う。それは、これが小説を原作としたものではなく、中上によるオリジナルシナリオの映画化であるということも大きいのだろう。
西武による潤沢な予算、田村正毅の撮影、中上健次の直接的な映画への関与、そして監督の年齢が40歳前後という体力的にも無理のきく脂の乗り切った時期であることなど、さまざまな条件が重なって、この映画の「稀有」なありようが成立していると思われるが、もう一つ決定的なのが、40歳代の北大路欣也という存在だろう。この映画の主人公は、現在の価値観からすると男尊女卑と有害な男性性の煮凝りのような人物で、それを「良い言い方」で言うとすれば、ちょっとありえないくらい「濃厚なオスの匂いを」発散しまくっている。筋トレで鍛えたとかではないナチュラルなガチマッチョだ。現代の日本では、こんな役ができるような、このような俳優は存在しないだろうし、存在できないだろう。というか、80年代半ばでも稀有な存在だ。たまたま、この映画の撮影時に北大路欣也という俳優が40歳代前半であったという偶然が、この映画の根本を支えていると言ってもいいのではないか。北大路欣也がいなければ、主人公の人物像が張子の虎みたいになっていた可能性がある。
これは中上健次の作品全般に言えることでもあるが、この映画の主人公は、一方で乱暴なあらくれ者であるが、もう一方で、三人の姉から思い切り甘やかされて育った、甘ったれたぼんぼんでもある。中上の主人公で、困難な状況から這い上がってきたというような人はほとんどいないだろう。ぼんぼんであるか、あるいは貧しい生まれだとしても、子供の頃から周囲の女たちからちやほやされ、甘やかされて育ったような人物ばかりだ(「父」は不在なのだ)。この両義的性質を、北大路欣也が見事に体現している(この役がもし「40歳代の北大路欣也」でなかったらどうなっていたことか)。
(中上自身、出自の複雑さはあるとしても、基本的には裕福な養父に育てられたぼんぼんであろう。)
それは彼が「男の子たちによるホモソーシャル的コミュニティ」においては絶対的に尊敬される王であるが、村的な共同体の中では鼻つまみ者であるという両義性とも繋がる。彼は人々から「(いつまでも若い衆らと連んでいて)年相応でない」とバカにされてさえいる。村の人々はなんだかんだ言いながらも現状(現在)を受け入れ、「バブル経済」を受け入れようとしているが、主人公(たち)だけがそれを拒否し(吉本隆明が言うところの)「アフリカ的段階」の中で(いわば「のほほんと」)生きている。
(それはいっけん「海の者」と「山の者」との対立であるかのように見えるが、主人公は「山の者」たちの秩序の中でもはみ出し者である。「海の者」と「山の者」とは通常は棲み分けられており、根本的に性質が異なるとしても対立はないようにみえるが、主人公はこの「棲み分け」さえも傍若無人に侵犯しているのだ。)
この映画が「スピった」ような感じが希薄であるのは、主人公が山の自然=環境を、半ば自分の「道具」であるかのように取り込んでいるからだろうと思う。それを象徴するものの一つが数々の「罠」だ。罠は、山=自然の知性を「先取り(横取り)」的に我有化することによって成立する。彼が「神さんの領域」を恐れないのは、侵犯的な存在であるからではなく、彼にとって山は、(神秘的にというより)道具関連的に取り込まれた自らの一部であるからだろう(「林業」もまた、山を道具関連的に用いる行為だろう)。彼にとって「山」は未だ宗教的対象(山の神)に至る以前の「親しさ(馴れ馴れしさ)」としてあり、その点が他の「山の者」たちと食い違っている(「山」に甘やかされている)。
(この映画はソフトも廃盤で手に入り難く、配信もなく、なかなか観られない感じになってしまっているが、その理由の一つに「動物」の扱いがあるのではないか。この映画では、動物たちへの「当たり」の描写が「荒く」、撮影のための明らかに多くの動物を殺したり、傷つけたりしていることがわかり、そのことが現在の「動物倫理」からすると受け入れ難い。それはしかし、我々と主人公(たち)とでは「山の動物(の魂)」に対する距離感や「価値の体系」が異なるということの表現でもあるのだが。)
⚫︎中上の小説における関係の複雑さに比べれば、二時間で語られる映画では関係がシンプルに簡略化されすぎているように思えるところもあるが、それを補ってあまりあるような、映画としての圧倒的な描写力がある。
(追記。この映画では、新宮のスナックの場面で郷ひろみ「お嫁サンバ」が流れるのだが、40年前、1985年にはすでに「お嫁サンバ」が存在していたのだという事実に驚いた。この曲の、古くもなければ新しくもない「時間の外にある」感じはすごい。使われているもう一曲の方、ザ・モッズ「激しい雨が」は、ああ時代だ、という感じしかしないが。)