(追記)以下に書かれていることは、基本的に間違っています。記憶のなかで「蝸牛」という小説と「補陀落」という小説がごっちゃになって一つになってしまっていたようです。「蝸牛」は『十九歳の地図』の三つ目の短編で、「補陀落」は四つ目の短編です。
●部屋で『十九歳の地図』(中上健次)を探したのだがどうしても見つからない。『鳩どもの家』『十八歳、海へ』『水の女』『蛇淫』『化粧』『鳳仙花』などは出てくるのだが、目的の『十九歳の地図』がどうしても見つからない。『十九歳の地図』を探しているのは、そこに収録されている「蝸牛」という短編を読み返したかったから。主人公の男が、女の子と遊びにいくためのお金をせびるために異父姉のところに行くのだが、姉は、主人公に自分たちの一族や自分についての昔話を延々と話し出す。主人公はお小遣いがほしいからその話に嫌々つきあい、聞いているのだが、次第に姉の話は爆発的に増殖してゆき、狂気の気配をみせはじめる、というような話。最近、読み返してなくて記憶で書いたので、このあらすじは正確ではないかもしれないのだが、とにかく、「女性による語り」を得たことで、「蝸牛」は、中上健次がこの作品によって「中上健次」になった、という小説となったのだと思う。『十九歳の地図』に収録されている四つの短編を最初から順番に読んでゆくと、三つ目の「蝸牛」で、文章の質や手触りや密度、そこに捕らえられている時間や空間のありようが、まったく異なったものに変化することに強い印象を受ける。本当に唐突に、空気の濃度がかわってしまうのだ。中上健次はこの作品によって何かをいきなり掴んでしまったというか、自分のなかにある、ある水脈に行き当たってしまったという感じが、ありありと伝わってくる。特に他の作品と読み比べなくても、これだけ読んでも、ここで何かか捕まれたのだという感触は生々しく感じられるはず。この作品自体が突出した傑作だというのとはちょっと違うのだが、その、何かに突き当たったという感触が生々しい。三年くらい前に、京都大学星野智幸さんと中上健次について対談をする機会があり、その時に中上健次の主要な作品を読み返したのだが、その時にも最も印象的だったのが、この「蝸牛」と、あと「岬」だった(「岬」は、特に詳細な描写がなくても、小説は、匂いや湿気までもを感じさせることが出来るのだということを示していて、本当に良い小説だと思った)。でも、それが読みたいのに見つからない。今日読んだのではなくて、三年前に読んだ時の記憶を書いているのだった。
余談だが、現役の作家で中上健次にいちばん近い感触をもっているのは、「書く人」としての岡田利規ではないかと、ぼくは思う。女性による語りを得た時に、記述が爆発的な展開をみせ、時間と空間の密度が一気に増し、そこに驚くべき冴えが発揮されるところなど。ぼくは小説版の「三月の5日間」の前半はそれほど面白いとは思えないのだが、終盤で語り手が女性になった部分はすばらしいと思うし(というか、語りが女性に移った時に「小説」を掴んだのではないか)、それが「わたしの場所の複数」へと展開してゆく力はすごい。「楽観的な方のケース」の語りも、女性によるものだった。戯曲でも、「マリファナの害について」や「労苦の終わり」の女性の語りはすごい。中上健次における「語る女性」はほとんどおばさんかおばあさんなのだが(『地の果て、至上の時』の中盤で、あきらかに流れが停滞していると感じられる時に、モンというスナックをやっている女性に視点が移って、読んでいて「救われた」という感じになる)、岡田利規では、もっと若いという違いはあるけど。
●昨日の日記では、ある種の「配慮」から具体的にタイトル案を書き込むことはしなかったのだが、青土社のサイトを見たら、既に新刊予告が出ていたのだった(http://www.seidosha.co.jp/index.php?%BF%CD%A4%CF%A4%A2%A4%EB%C6%FC%A4%C8%A4%C4%A4%BC%A4%F3%BE%AE%C0%E2%B2%C8%A4%CB%A4%CA%A4%EB)。