●また日付を間違えてしまった。本当は、これが三日の日記で、三日分として上にあるのが二日の日記。
●お知らせ、その1。「早稲田文学」3号に、「泣く女、透ける男--中上健次「蝸牛」をめぐって」を書いています。中上健次については、今後もつづけて考えていきたいです。
その2。これはまだ正式には発表されていませんが、2月20日の15時から、ジュンク堂新宿店で、『人はある日とつぜん小説家になる』刊行記念として、磯崎憲一郎さんと対談します。詳しいことは、近日中にジュンク堂のサイトなどで告知されると思います。
また、それから約三週間後、三月に入ってから、別の場所で、『人はある日とつぜん小説家になる』で作家論を書いているもう一人の別の小説家の方と、別の対談の予定もあります。詳しいことは、また改めて。
●帰ってきたら水が出ない。水道、とめられた…。
フィリップ・K・ディック『去年を待ちながら』。すごい。ほとんど、混濁と紙一重の複雑さ。のちに、『ユービック』や『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』や『流れよ我が涙、と警官は言った』などの傑作として結実するようなディック的主題群が、まだ充分に吟味されていないようなものも含め、玉石混淆な感じで、すごい密度でびっしり詰め込まれ、絡み合っている。
なんとも言えない重っ苦しさと陰鬱さは半端ではない。自らの身体のあらゆる場所に病気を抱え込み、限りなく死に近づきながらも首の皮一枚で踏みとどまって死にきらないことで、泥沼の戦争状態を、解決は出来ないにしても、決定的なカタストロフに至らないところに留めている(そして、そのような延々とつづく苦痛と混濁でしかない生を、一人のロリータの存在に依存することで支えている)国連事務総長のキャラクター(苦痛そのものでしかない自らの生を、ただ政治的策略-義務のためだけに持続させているのだ)や、人工臓器をつぎはぎして元気なまま果てしなく生き続けながら、火星に自分の子ども時代の環境をそっくりと再現してそこに回帰することで精気を得る大富豪のキャラクターなど、人が「生きている」ことにまとわりつく、重っ苦しさとどうしようもなさが容赦なく形象化されているように思う。特に、国連事務総長の特異なキャラクターを造形し得たというだけでも、この小説は比類のないものだと思う。
《モリナーリがつぎつぎと命取りになりかねない重病に見舞われながらも生き延びているのはなぜなのか、エリックにはわかっている--病気はストレスから生じた症状であると同時に、そのストレスを解消する方法でもあるのだ。》
ディックの小説は多かれ少なかれ、前半部分が混乱しているように思えるのだが、特にこの小説は混乱しているようにみえる。しかし、この混乱こそが、ディック独特の複雑さをつくっているように思う。ディックはおそらく、プロットをきちんと立てて書いているわけではないのではないだろうか。まず、書きたいことを書いて、自分が書いてしまったことのなかから、その先にその物語が進むべき道すじをみつけているという感じがする。物語の展開や構造だけを考えれば、無駄とも思える細かい枝葉が多く、しかしそれこそが小骨のようにこちらに突き刺さってくるのだし、要約不可能な複雑さを可能にしている。そして、書いてしまった物語を収束させるために、SF的な意匠が利用される、という気がする(この小説では、10章までは延々と陰鬱で重たい主題が展開され、11章に入ったとたん、物語は突然収束に向かう感じになる)。かなり無茶なことをやっても、SFならばいくらでも後からつじつまを合わせられる、と。そのような意味で、ディックにとってSFというジャンルやSF的な思考実験はそれほど本質的な問題ではないように思う。