『サッドヴァケイション』(青山真治)

新宿武蔵野館で『サッドヴァケイション』(青山真治)。とりあえずとても面白かった。渾身の傑作というよりも、どこか軽さと余裕を残している感じもいいと思う。それでも、「でも」とどこか保留をつけたいと思ってしまうのは、ここが納得出来ないとかあそこが良くないとかではなくて、何故、今、これをやるのか、という次元で、最後まで観ても、本当のところで納得できなかった、ということだと思う。この映画は、原作も青山真治ということになっているけど(原作の小説は読んでないけど)、あきらかに原作は中上健次で、中上健次ではない要素を探す方が難しいくらいだ。(浜村龍造が母と一体になっていることと、斉藤陽一郎がいることの二つが、最も中上とことなる点だろう。青山監督は、中上健次の世界に迷い込んだ斉藤陽一郎の視点から映画をつくっているのかもしれない。)そして、今、映画で中上をやるとするなら、こうやる以外にあり得ないだろう、と思わされるような説得力のあるフォルムを掴んでいるとは思う。青山監督の中上健次への傾倒が半端なものではないということはすごく納得できる。中上健次を真摯に読み込むことによってしか出てこないような映画だとは思う。今、秋幸をやれる俳優は、おそらく浅野忠信以外にいないのだろうと、その歩き方ひとつとっても感じる。しかし、何故、今、中上健次なのか、あるいは、何故、北九州三部作の三作目が、こんなにあからさまに中上健次である必要があるのか、がいまひとつ分らないのだ。
●一方に、すべてのものを呑み込んでしまう底なし沼のような母(身もふたもない現実)があり、その傍らに、責任(という人間的な次元)において何かを引き受けようとする義父がいる。(ここで単純に母性=自然ではないのは、中国人マフィアの行動原理が、この母と同じものであることからも分る。それがこの映画に大きなひろがりを与える。それにしてもこの中国系マフィア役の俳優は素晴らしい。)息子は、あきらかに血のつながりのない義父の系列にいる人物である。息子には、このような母的な存在が耐えられない。母的なものから自らを切断したいという強い衝動につき動かされて行動する。この映画はこのような二項対立によって構成された神話的な世界であり、北九州という場所はたんに神話的な舞台としてあり、固有のローカリティはほとんど関係ない。(だから、北九州的なものを代表していると思われる光石研は、後景に退く。)しかし息子の行動は、母にはたいした打撃を与えることはない。弟がダメなら兄がいるし、どちらもダメならその子供がいる。それが世界である。「男の人は好きにしたらいい」、そんなことで世界はなにひとつ変わらないのだから、というのが母の原理である。(「次から次へと、せんぐりせんぐり生まれてくるわい」という『小早川家の秋』のラストを思い出す。)そのような母の前で、息子は屈服させられるかのようだ。しかしもう一方で、そんな母のかたわらにいながらも、たんたんと自らの「責任」をまっとうしようとする義父の姿があり、その義父のつくるアジールの描写で、この映画は唐突な楽天的な調子で幕を閉じる。最後に、母的なものだけでなく、様々な重力から解放されて飛翔するような「ゴースト」が流れてくると、思わず感動して泣いてしまう自分を、甘っちょろいなあと思うのだった。
●息子の母へのうらみは、自分や父が「捨てられた」ことによる。だから息子は、ヤスオさんの妹もアチュンも決して「捨てない」という責任を背負い込むのだろう。しかしそれだけでは、たんなる個人的なうらみにすぎなくて、神話的な次元へと物語を立体化できない。ここで、あらゆることがらを呑み込んで肯定してしまう「母的」な土壌への反発と、個人的なうらみが結びつけられる。母の生きる原理は、父がダメなら義父へ、弟がダメなら兄、どちらもダメならその子供へと、次から次へと乗り換えてゆく処世術だけではなく、同時にその全てをまるごと受け入れてしまうような大きさをももつ。それは、殺した兄の子供を、殺された弟の生まれ変わりとして受け入れてしまうような非人間的なものでもある(「死んだ者のためにでも、生きている者のためにでもなく、これから生まれる者のためだけに生きましょう」)。全てを受け入れると同時に、用が済んだ者(死者)はさっさと忘れる(捨てる)ということだ。それは、責任として何かを受け入れ、それを維持しようとする(決して忘れない、決して捨てない)義父のあり様とはまったくことなる。だから、義父が、あぶれ者たちを受け入れるために間宮運送を経営することと、母が、ヤスオさんの妹(実は息子の異母妹)や、弟を殺した兄の恋人や子供までを受け入れようとすることとは、まるで異なる原理から発せられることだろう。
息子は、自らが背負ったヤスオさんの妹やアチュンを決して「捨てない」ように、自分がかつて「捨てられた」という過去の記憶(うらみ)をも「捨てない」。一方、あらゆる成り行きを受け入れる母は、かつて息子を「捨てた」ということを簡単に「捨て(忘れ)」、弟がダメだからという理由で(あるいは死んでしまったものは仕方ないとして)弟を「捨て」て、兄に頼ろうとする。だから、ここでの息子の母に対する対立は、自分がかつて「捨てられた」ことへのうらみというだけでなく、「捨てない者(責任を負う者)」と「捨てる者(執着しない者)」との対立となる。それは、捨てない者からみた、平気で捨ててしまう者への憤りというよりも、恐怖に近い様相を呈する。(それは中国人マフイアへの恐怖とも繋がる。)結局、平気で捨てる者こそが、あらゆることがらを平然と「受け入れる」のではないか、と。
●『枯木灘』で、秋幸が偶発的に弟を殺してしまうことが、事後的に象徴的な父殺しになるはずだったのに、それが龍造の懐の深さによって失調してしまうという図式が、この映画でもそのまま母へとスライドして使われている。ここで重要なのは、弟を殺してしまうことが偶発的な出来事であって、父や母への復讐として予め計画されていたわけではないという点だ。しかし、にも関わらず、その行為は事後的に(結果として)父や母へ打撃を与え、復讐として機能するはずで、それによって、息子に一定の「手応え」が与えられるはずであった。しかしそれは、父や母の底なし沼のような懐の深さによって埋没させられてしまう。息子の衝動は、空転したままで内部にくすぶりつづける。中上健次においては、『枯木灘』でこの空転が経験された後に、『地の果て、至上の時』の、漂い出すような彷徨へとつながる。つまり、『地の果て、至上の時』は、『枯木灘』が書かれた「後」にしか書かれえない。しかしこの映画では、この二つの作品が予め書かれている「成果」として同等に利用され、重ね合わされている。だからこの映画では「弟を殺してしまうこと=母への復讐の失調」が充分に機能しないのではないだろうか。(失調が既に経験されてしまっているかのような)『地の果て、至上の時』の世界のなかで『枯木灘』の事件が起きても、それは事件たり得ないのではないだろうか。物語というのはそういうもので、常に結果が先取りされているものなのだ、と言われれば、そうなのかもしれないけど。