●渋谷のシアター・イメージフォーラムで、『コロッサル・ユース』(ペドロ・コスタ)。ぼくは、人が言うほど『ヴァンダの部屋』がすごいとは思わないのだが、『コロッサル・ユース』はけっこう面白かった。ペドロ・コスタを観る多くの人が中上健次を想起すると思うのだが、『ヴァンダの部屋』には『枯木灘』的な濃密さがあったのだが、『コロッサル・ユース』にあるのは、『地の果て、至上の時』にあるような、希薄さと薄っぺらさで、しかもそこに、とても曖昧な感じで過去や幽霊が混じり込んで来て、その過去や幽霊すらもかなり薄い感じで、そこが面白かった。
『コロッサル・ユース』には風景がほとんど写ってなくて、ひたすら、壁と椅子とテーブルとベッドばかりで、つまり室内か、壁に囲まれた閉ざされた場所ばかりで、『ヴァンダの部屋』もそうなのだが、そこでは、壁の至るところに穴があって(つまり、窓と出入り口があって)、そこから絶えず、人や物や光りが出入りしていたような感じだったのが、『コロッサル・ユース』では、人物のいる背景がほとんど壁であり、そこには出入り口としての穴がなく(窓があっても、それは外に通じているような窓ではない、最初に家具が捨てられる窓を除いて)、人は壁伝いに横移動するしかない。これがまず、空間から熱さや深さを奪い、そして動きを奪っている。だからこの映画で、人は漂うようにしか動けない。
しかし、あるショット、あるフレームのなかでの動きをほとんど禁じられている人物も、あるショットから別のショットへ、あるフレームから別のフレームへは、ほとんどテレボーテーションのように移動できる。だからこそさらに、空間は希薄になる。この映画の主人公は、廃墟と化した移民たちの居住区から、近代的で薄っぺらな集合住宅へと、あるいは、複数の(擬似的な)子供たちのもとへと(時にはポルトにまで)、あるいは、過去へさえも、パッ、パッと(ずるずるっと)移動できる。観客は、彼が過去にまで移動していることを途中まで分らず、美術館の警備員との話によって、はじめて過去への移動に気付く。そのくらい、彼の移動の足取りは、そしてこの映画の時間の制御は、ルーズなものなのだ。(物語的な時系列と、映画のシーンの順番との関係が、割とどうでもいい感じ。)ヴァンダはヴァンダの部屋から、ベーテはベーテの家から、ほとんど動けないのに対し、主人公のヴェントゥーラだけは、神出鬼没にどこへでも顔を出す。(どこでもドアとタイムマシンを持っているかのようだ。)このような偏在性が、主人公の存在の、幽霊のような希薄さを際立たせる。事実、この映画で主人公は、もはや失われてしまった、移民の居住地にあったコミュニティの繋がりそのものの幽霊として存在する。
(ヴェントゥーラやヴァンダやベーテが、見えないはずのものを見ているかのような場面は、ちょっと『ペドロ・パラモ』を思い出させる。)
ペドロ・コスタのフレームは、ちょっと決め過ぎなんじゃないかと思える程に決まっている。この、カメラの位置を選択する的確さは相当なものだとは思うが、やはり一方で、その決め過ぎが、やや堅苦しいというか、うざったい感じもする。しかし、映画のショットには二つのフレームがあって、空間的なフレームだけではなく、そのショットがどこではじまり、どのくらい持続して、どこで終わるのか、という時間的なフレームもある。この映画でのショットの時間的なフレームは、決まっているどころか、ほとんど底が抜けているかのようにぐずくずで(多分、それがこの映画がとても「眠くなる」ことの原因だと思う)、しかしこの時間的フレームがぐずぐずであることのなかにこそ、この映画の(希薄さの)リアリティが宿っているように思われた。
出来れば、もう一度観たいと思った。(ただ、この映画は、スクリーンで観なくちゃいけないという必然性は、そんなにないとは思う。)