ホウ・シャオシェン『珈琲時光』(1)

ホウ・シャオシェン珈琲時光』をDVDで観た。何故この映画をもっとはやく観なかったのだろうか。これは素晴らしい。映画っていうのはこういう作品のためにあるのではないかとさえ思った。『ミレニアム・マンボ』が、珍しい野生動物の生態の記録みたいな映画だったとすると、この『珈琲時光』は、街にいる野良猫の行動と行動範囲を追いかけたような映画だと思う。この映画の素晴らしさはまず主演の一青窈の存在と切り離せない。ぼくはこの映画の一青窈を「好きだ」とは決して言えないのだが(それは『ミレニアム・マンボ』http://www008.upp.so-net.ne.jp/wildlife/yo.28.html#Anchor4548722スー・チーも同様だ)、しかしそれでも素晴らしいと言うしかない。確か相米慎二浅野忠信のことを、俳優は普通にしろと言うと「普通っぽい演技」をするのだが、彼はカメラの前に本当に普通に立つことが出来る、というようなことを言っていたと思うのだが、その浅野忠信さえ、一青窈と同じフレームに納まると「俳優」という感じがしてしまうくらい、彼女はカメラの前で「ただ存在している」という感じなのだ。彼女が実家に帰ったシーンで、猫にちょっかいを出した後に居間のようなスペースに寝転ぶというアクションがあるのだけど、このシーンの一青窈はまさに猫と全く変わりない感じでカメラの前にいるのだ。あるいは彼女が歩くシーン。人はこんなにも、「撮影されている」という自意識などないかのように、無防備に歩くことが出来るのか、と驚く。勿論、この一青窈の素晴らしさとは、この映画でホウ・シャオシェンがやろうとしていることと、一青窈という人のカメラの前でのあり方とがぴったり重なっている、ということなのだ。(この無防備さがそのまま、彼女がこの映画において「演じる」陽子という人物の寄る辺無さとつながっているのだった。)カメラは、撮影する人の思い入れなどとは無関係に撮影対象を写す。この映画の一青窈は、カメラのフレームにいきなり入り込んでしまった猫みたいにして、あるいは、録音マイクにいきなり侵入してきた電車の音みたいにして、フレームのなかに存在している。そして、ホウ・シャオシェンはそれを、最大限の注意と繊細さでじっくりと見つめている。この映画は、そのシーン(その時間、その場所、そこにいる人の動きや息づかい)を、ただじっくりと、息をつめて寸分逃さず、見つめることしか許してくれない。だから、登場人物に感情移入して映画を観るような人には(あるいは、登場人物への好き嫌いの感情が、そのまま作品の好き嫌いへと繋がるような人には)、この一青窈のあまりの「マイペース」な人物像には、かなりの苛立ちを感じるかもしれない。この映画は「見ること」の残酷な非人間性のような距離を要求してくる。だがそれは、登場人物を対象化して「物」のように見るというのとも違う。前述したが、この映画はまるで猫のような人物の行動とその行動範囲を捉えるような映画であり、決して「気持ち」には入り込まず、ある人物の生息する環境とその環境のなかでの行動を(最大限の繊細さで)捉えることで、より生々しく、その人間の生をまるごと捉えようとしているのだと思う。この映画は、性格とか人柄などというものを超えた、もっと大きな把握力によって人物が(その置かれた環境と不可分なものとして)捉えられ、支えられ、肯定されている。
(このような見方は映画を観るときには邪道だとも思えるのだが、ちょっとした余談をひとつ。DVDには予告編の映像が付いていて、予告編には本編に無いショットが採用されている。映画のラスト近く、一青窈は電車のなかで眠っていて、その同じ車両に浅野忠信が乗ってくる。彼は彼女に気付き、その眠っている席の前に立つ。そして次のシーンでは二人がそろって電車を降りる。予告編では、本編には無い、一青窈がちょうど目覚めるところのショットが使われているのだ。ぼくは、本編を見終わった後に特典映像として付いていた予告編をぼーっと眺めていて、本編には存在しないこのショットを見た瞬間に、この映画の全体、一青窈の存在や、彼女と浅野忠信、彼女と家族の関係、そしてそれらが展開する東京という場所のいくつもの風景、が、一つの塊として頭のなかに一気にぶわーっと沸き上がってきて、わけもわからず涙がこみ上げてきたのだった。つまりこの映画は、この映画の外、映画には存在しない場面も含めて、この人物と、この人物の住む場所のまるごとの存在が感じられるような作品なのだと思うのだ。)
●この映画を見ていて驚くのは、そのフレームの開放的な性質だ。フレームは世界の一部を切り取り、限定するのだが、この映画ではフレームの内側と外側の出入りがすごく活発に行われているように思う。それは、ただ空間的にそうであるだけでなく、時間的にもそうなのだ。(つまり、ショットに前の時間と後の時間が存在するように感じられる、ということ。)ここでは、フレームの外で起こっている出来事も、必ずフレームの内部になにかしらの影響を及ぼすのだ、と考えられているように思う。この映画では、例えば一青窈の住んでいるアパートや実家の玄関が示されることは一度もないのだが、それは小津の不在の階段などとはあきらかに違っていて、何かの「不在」を際立たせるようなものではなく、たんにフレームは全てを捉えることが出来ないというだけのことだと思う。むしろこの映画では、限定されたフレームのなかにいかに多くのものを詰め込むことが出来るのか、ということの方が重要なのだと感じる。例えばそれは、一青窈のアパートに両親が訪ねてきたシーンの、あの驚くべき複雑なショットひとつを見ても分かると思う。(浅野忠信の古本屋を店の外の方から捉えたショットや、一青窈の実家で彼女が父と帰って来た時の、奥の台所に母がいるショットとかも。)
●東京近郊で暮らしているかぎり、電車に乗り、電車を乗り換えるという行為は、極めて日常的に頻繁に行うことを強いられている。まさに電車映画とでも言うべきこの映画を観ると、そのような、積み重ねられ、沈殿した記憶が刺激されて泡立ってくる。この映画での電車は、移動を表象するというよりも、その振動、雑音、ざわめき、人いきれ、を刻みつけられる場所であり、そして、無数の匿名的な人物たちが行き交う場所として、つまり「都市」の環境そのものの表象としてあるし、それはそのまま、主人公の一青窈の寄る辺無い存在のあり方とも重なっている。この映画には、お茶の水駅近くの、複数の路線が立体的に交差しているところを俯瞰で捉えたショットが何度が示される(お茶の水駅のホームの先端には浅野忠信がふわっと立っている姿が映っていたりする)。もし、東京という都市をたった一つのショットで表せ、と言われたら、このショットがふさわしいのではないかと思った。(ヴェンダースの『東京画』がイマイチなのは、こういうショットを撮れなかったからなんだなあ、と、ちらっと思ったりした。)