●昨日書いたことと関係するのだけど、一つの作品を「連載」というかたちで書き継いでゆくということはどういうことなのだろうか。「どういうことなのか」というのは、そのような書かれ方が、作品そのものにどのような影響を与えるのか、ということだ。全体としてひとつのまとまりを形作る「一つの作品」を、それが完結する事前の段階で、少しずつ細切れで手放してゆくこと。そしてその細切れの部分が、次々に加算されることで作品が出来上がってゆくこと。別に、例えば書き下ろしのような作品でも、細部を少しずつ積み上げていって完成に至ることにはかわりはないだろうけど、それでも、複数の「締め切り」が小刻みに定期的にやってくるのと、全体として一つの「締め切り」があるのとでは、かなりその途中の作業の意味が異なるのではないか。(このようなことを思うのは、藤沢周の『箱崎ジャンクション』や柴崎友香の『フルタイム・ライフ』を読んだからなのだが。)全体として大きなフレームが一つあることと、小さなフレームが時間とともに加算されていって、結果として一つの大きなフレームとなることの違い、と言えばいいのが。ある本の第一章を読んでいる時、読者はまだ最初の章しか知らないのだが、本は物として既に完結しており、その時点で既に最終章は「書かれて」いる。しかし、連載の第一回目を読む時、その先の展開はたんに読者にとって未知であるだけでなく、物理的に未だ書かれてはいないという意味でも、開かれているのだ。(例え作者の頭のなかに綿密な設計図が描かれていたとしても、物理的には書かれていない。)作者と読者とは、書かれる時間と読まれる時間との多少のズレはありながらも、ある「開かれた状態」を共有し、開かれたままで(書き、読むという作業が)進んでゆく。そして、そのような状態で書き継がれた作品は、完結し閉じられた後、一冊の本として纏められたものとして読むとしても、「そのようにして書かれた」という痕跡と言うか、そのようにしてしか書かれ得なかったものを刻み付けられており、それを読み取ることが出来るのだと思う。(『フルタイム・ライフ』のような小説の面白さは、まさにそこにこそある。)例えば、三年かけて一つの作品を完成させることと、毎月、毎月、書き継いでいった部分が、三年分積み重なることで、一つの作品を形作ることとでは、その作品が表現する時間がちょっと違うだろう。
ぼくはあまりにも当然のことを書いているだけなのかも知れない。ぼくは絵を描いていて、絵画は、そのフレームは制作中でも常に目に入っていて、出来上がった作品もとりあえずは一目で全体(フレーム)を把捉出来る。例え、(連作のような形式によって)フレームを分割したとしても、それが展示される時には、一つの空間という(もう一つ大きな)フレームのなかで、空間的に配置されるしかない。ここで一つの空間=フレームというのは(おそらく一冊の本というのと同様に)、大きな抑圧となる。一つの空間としてきれいにまとまるように作品を展示空間に配置することは(おそらく一冊の本として納まりがよいように短編を配置するのと同様に)、それらの作品に内在する「時間」を消去してしまうという傾向を生む。それは個々の作品のそれぞれのフレームも同様で、一つのフレームのなかに配置された一つ一つの筆致は、それが置かれた時間が異なり、時間のなかでの一つ一つの筆致の積み重ねによって一つの作品が形成されるにも関わらず、作品が完成した時には、それぞれの筆致の時間性は、作品全体の空間性によって消えてしまうという傾向がある。(単純な事実として、最後に置かれたであろう筆致が簡単に推測できてしまうような絵は、構造が単純過ぎるということであり、ほとんどの場合大した絵ではない。)つまり、絵画は作品として成立するためには時間を消去してしまうしかないのだ。しかし、良い作品はそれでも、どこかに、それが時間のなかで形成されたのだという感触や厚みを感じさせる力をもっているのはずだ。
結局、フレームが問題になるのは、一つのフレームが、一つの滑らかな空間を要求する強い力(抑圧)として作用するからなのだ。しかし、このフレームの力を脱臼させ、脱中心化、あるいは脱構築すればよいということではない。それではたんにプラスマイナスでゼロになるだけだろう。(小林正人が、出来上がったキャンバスの上に描いたのでは、ただキャンバスを消すことにしかならないから駄目で、何か積極的なイメージをたちあげるためには、描くのとキャンバスが出来上がるのが「同時」でなければならない、と言うのも、このような意味だと思う。)逆に言えば、フレームの力に抗し、それを崩し、そこに何か(フレームの外との繋がりをもつ)積極的なイメージをたちあげるための最大の武器こそが「時間」であるとも言える。だからこそ、作品をつくるということは、作品を制作する「時間」のあり様をつくるということでもあるのだと思うのだ。