08/02/26

●美術作品がある空間に展示される時、そこにはことなる二種類の空間が発生する。作品が置かれることで、その空間全体に及ぼす影響と、その作品そのものが内包する(作品そのものの作用の内にある)空間だ。この二つを厳密に分けることは難しいが、しかし、混同することは出来ない。
ある作品は、ある特定の空間のなかでつくられ、特定の空間に設置される。その時、作品は、それがつくられた空間を呼吸するようにそのの影響を受けるだろう。そして作品は、それが設置される空間の影響も受けるし、その空間に影響を与えもする。しかしそれと、作品そのもののもつ空間性とは一致しない。たとえはジャコメッティの彫刻は、それが内包する空間はそれほど大きくはないが、それによって影響される空間はとても大きい。ジャコメッティの小さな彫刻が一点置かれるだけで、美術館の展示室全体の空気の張りが変化する。(念のために書くが、彫刻作品において、その作品が内包する空間の大きさとは、その作品の物理的な大きさのことではない。)
絵画の場合、フォーマットがある程度決まっているので、描かれた空間の大きさと、そのフレームの物理的な大きさとの分裂として、それは比較的みえやすい。(絵画の場合、そのフレームの物理的な大きさが、ほぼ、作品が現実的な空間に与える影響の大きさを左右するとはいうものの、これも厳密には一致するものではない。)描かれた空間の大きさとは、別に広大な風景が描かれているから空間が大きいとか、そういうことではない。その作品が、作品として内包し、動かしている空間のふところの深さのようなもののことだ。(だから、描かれた-表象された空間の大きさと、描かれた-作用する空間の大きさとの間にも、分裂がある。広大な風景を描いた、空間の小さい絵もある。)
その作品で問題にされている空間的スケールと、その作品が実際にもっている大きさとは必ずしも一致しないし、一致することが良いことでもない。例えば、バーネット・ニューマンの作品は、作品が問題とする空間的スケールと、実際の物理的なフレームの大きさとが厳密に一致することが求められている。しかしそれは、ニューマンの作品としてはそれが必要だったということであり、その一致は決して一般化されるものではない。(というか、そう簡単には一致しないということが、ニューマンの作品を振動させている。)
シアトリカルでミニマルな美術作品がつまらないのは、その作品が、現実的な空間へと与える影響や効果のみを問題としていて(それが「表現」だと思っていて)、それと、その作品そのものに内包される空間との分裂という、美術作品のあり様の根本的な問題が見過ごされているからだ。(本当は、作品をつくるということは、後者を「発生させる」ということなのだ。)要するに、ニューマンの作品や、あるいはジャッドの作品の、ギリギリのところで成立しているの特異な達成を、安易に一般的なものへと流用してしまっている。もっと言えば、作品というものの一番重要なキモの部分を理解していない。(当時それは、「イリュージョンの廃止」という名で問題化され、モダニズムの公理としては、それが絵画の進歩の一つだとさえされていた。公的な「問題」として一般化されることの恐ろしさ。)
熊谷守一のきわめて小さなサイズの作品を観ていて強烈に感じるのは、その物理的なサイズのつつましさと、そこで扱われている空間の捉えどころのなさとの、恐ろしいまでの分離だ。美術館のなかを歩いていて、ああ絵がかかっているなあと思う時にみている、建築空間のなかでの作品の物理的なスケール感と、その絵に近寄って、一枚一枚の「その絵」を観ている時に観ているイメージのもつ底抜けのスケール感とが、まったく一致しない。もっといえば、熊谷守一の絵は、物理的な大きさを持たない絵であるかのようなのだ。昆虫や植物といった小さなものを描いた、ごく小さなサイズの絵が、物の大きさやパースベクティブといったものを見失ってしまうような「大きさのないイメージ」として迫って来る。
子供の頃に風邪で寝込んでいる時、ぼくはよく、自分の口のなかには到底入り切らないような大きなものが、無理矢理口のなかにはいってきて、それがさらにもこもこと巨大化して、自分の身体が内側からひっくりかえされてしまうような、妄想というか、幻覚的な感覚に苦しまされた。熊谷守一の絵を観るときの感覚は、どこかでその時の感覚と繋がっているようにも思われる。