●一昨日、五分くらいでさらって描けてしまった絵は、アトリエで異彩を放ちつつ、他の作品をじわじわと圧迫しているみたいでもある。ぼく自身も、ほとんどたまたま描けてしまったようなこの絵に、動揺させられ、揺らがされてしまっている感じだ。時間がたつにしたがって、やったー、描けた、みたいに無邪気に喜んでいるだけでは済まない感じになってきた。描けてしまったこの絵を、自分はどう引き受けていくべきなのかが、重たくのしかかってくる、みたいな。
この絵は、白いキャンバスの上に、数本のシンプルな線が引かれただけの状態で、自分としては画期的なのだが、人が観れば、えっ、これのことなの、と、拍子抜けするような、未だ描き出しですらないもののようにもみえるかもしれない。絵は、キャンバスの(あるいは色面の)物理的な大きさと広がりとが空間に作用するはたらきと、キャンバスの上に絵の具を置き、描くことで生まれ、動いて行く空間との、拮抗であり、緊張であり、共鳴でもあるようなものとして、あらわれる。(これは単純に、リテラルな空間とフェノメナルな空間という風には分けられない。空間は常にフェノメナルなものであり、しかし、その次元が複数ある、ということだ。だから空間は二層あるだけではなく、描くことによって、キャンバスのリテラルなひろがりさえもが、複数の層へと分離する。)ぼくはそのように考えているし、以前にも何度もそのように書いた。ただ、言葉で言うのとそれを作品として実現するのとはまた別なのだけど、この絵は、たった数本の線だけで、ぼくのいままでの作品と比べてはるかに、複雑で大胆に、とても深い懐と大きな振幅をともなって、それを実現出来てしまったように、ぼくには感じられたのだ。特に、キャンバスのリテラルな大きさ(広がり)の捉え方の正確さと、そこへ線で切り込んで行く時の大胆さが、大きくことなる。
で、この絵は、今その隣に置いてある、それなりの量の絵の具が置かれ、色彩や筆触同士の関係もかなり綿密に調整されている制作途中の別の絵に対して、挑戦的なというか、脅しをかけるようなとも言える視線を送り、挑発してきているようで、そこには、かなり大きな緊張が発生している。ぼくが抽象表現主義以降の、ミニマル-リテラル-シアトリカルな作品を退屈だと感じるのは、画家の力量としての「描く力」によってしか制御できないし、たちあがることもない、不安定な、「描く事で動く空間」に対して、あまりに臆病でありすぎる、ということなのだが、それと同様の、お前ら臆病過ぎるんだよ、という挑発を、この絵は、アトリエにある他の作品に対して行っているようにみえる。
自分の力量もわきまえないで、この挑発に簡単にのってしまうと、それこそボコボコにされて、絵を描く(作品を組み立てる)という行為そのものが崩壊してしまう恐れがある。しかしかといって、この絵が他でもない「自分の手」によって描かれてしまった以上、その挑発を無視することも出来ない。手に負えない問題児を抱えてしまったかのように気が重くもあり、正直どう対処すべきか途方に暮れているのだが、それは同時に、どこかわくわくする感じてもあるのだった。
●『不思議の海のナディア』1~4話をDVDで。面白かった。展開が全くのご都合主義なのだけど、それが、アニメの快感原則に徹底して忠実なご都合主義であるところが素晴らしい。そして、アニメの快感原則を先導する欲望の対象は、やはりメカと女の子なのだった。