08/02/18

●早起きして、気合いを入れて原稿に向う。10枚分くらい進んだところで頭がフリーズし、まだお昼前なのに、一日の仕事をやり終えたかのような虚脱状態で、しばらくボーッとする。
一日分の頭脳労働はもう終わり。足りない画材を買いに出る。外が、あまりにいい日射しなので、一駅分歩いてから電車に乗ることにした。日射しはきれいだし、空は澄んでいるし、そんなに無茶苦茶寒くはないし、花粉もまだ本格的には飛んでいないみたいだし、散歩するための日のようだ。寒いと、どうしても早足になるが、そうでもないと、歩く速度がぐっと遅くなる。遅くなると、足をひきずるような歩き方になるらしく、時々、思いがけずに靴の裏が地面を擦ってズズズッという音がたって、軽く驚く。隣り駅のちかくで「都まんじゅう」を買って、電車のなかで食べる。
●芸術はやはり、スポーツに似ているように思う。ごく一握りの、凄い人がいて、その人のする凄いプレーがある。それ以外の多くの人は、その凄いプレーに魅了され、そこまでは至らなくても、少しでもそこに近づこうと努力する。この世界のなかには凄いものがあり、それに驚き、魅了され、それを尊敬する。このシンプルな動機が、ほとんど全てだ。勿論実際には、スポーツには、政治や経済や自己承認への欲望(俺様はエラい、とか、モテたい、とか、ランキングで何位、とか)といった「妖怪」たちがびっしりと絡みついていて分ち難い、きわめて生臭くドロドロした世界なのだが、それら全てを背負い込んでもなお、生き残っているシンプルな動機があり、敬意と驚きがある。
(象徴的な秩序が破壊された後に自由がやってくるとかいった素朴なアナーキズムは馬鹿げている。マイクロポップとか。そうではなく、象徴的なものは常にあり、かつ不可欠なのだが、しかし同時に、いま、ここは、常に自由の可能性に開かれてもいて、それを具体的に実現させているのが「凄いプレー」なのだと思う。)
だからそれは民主主義でも平等でもない。できる奴がいて、できない奴がいて、その差は歴然としている。できる奴は常にごく僅かだ。ただ、凄いプレーの前では、全ての人は平等であるだろう。凄いプレーは、それができる人が所有するものではない。凄いプレーヤーだろうと、凡庸なプレーヤーだろうと、観客だろうと、批評家だろうと、凄いプレーへの敬意と驚きはかわらないし、様々な形ではあれ、「それ」にちかづきたいという気持ちもかわらない。その点では平等であり、また逆に、それがないのなら何の意味もない。まず最初に凄いプレーがあり、それへの驚きと敬意とが生まれ、すべてはそこからはじまる。
凄いプレーへの驚きと敬意を、超越的な欲望とか、メタ化への欲望とかいった言葉で説明することはできない。あるいは、カント的な普遍への要請としても。たんに、おおっ、すげーっ、という驚きがあり、これは一体どうなってるんだ、あるいは、どうやったらこんなことが出来てしまうのか、という疑問がつづく。そして、どうやったら、この凄さの一部分でも、自分の身体として反復させることが出来るのか、あるいは、この凄さにどうやったら一歩でも近づくことが出来るのか、という試行錯誤がつづく。
ただ、スポーツを例にすると、どうしても話がマッチョなものに傾きがちではある。冬の晴れた寒い午前中の空の澄み方とか、塀から飛び降りる猫の身のこなしとか、空き地に生える雑草の伸び方とか、そういうものもまた、凄いプレーと同等に「凄いもの」であろう。(念のために言うが、それらは「日常のなかの些細な表情-感情」を表現-代表するものということではない。あくまでそれ自体が「凄いもの」なのだ。)芸術とはおそらく、世界のなかにある「凄い出来事」に自分をすっかりと預けてしまうことだ。だからそれは、まったく主体的な行為ではない。そもそも、凄い出来事への「驚き」とは、私が驚くのか、世界そのものが驚いているのか、区別がつかない。