●「なんとか論」を書くというのは、まずなんといっても一義的には愛と尊敬の行為以外のものではなく、対象に対する愛や敬意がなければ、わざわざそんなに詳細にしつこく作品を読み込むことなんて、面倒くさくてとても出来るものではないし、大してシャープではない頭を酷使するのは、そもそも相当しんどいことなのだ。ぼくは、出来ることならば常にぼんやりとしていたい。
ただ、分析するという行為は愛や尊敬の営みとは両立しがたいところもあって、それはどうしても、冷たく残酷に自動的に進行するもので、しかし完全な中立、中性として作動するということでもなく、下手をすると逆向きの意地の悪い感情のスイッチが入り、何かを暴きたてる時の下品な欲望とその歓びが作動してしまう危険が伴う。そしてさらに、愛と敬意の間には埋め難い微妙な違いがある。しかし同時に、敬意としての愛と、より動物的、原初的な愛とは、本来未分化なもので切り離しがたくもある(厳しい緊張を伴った尊敬すらも、おそらく動物的な愛-密着の感情を基盤としなければ成り立たない)。愛(愛着、密着)を前提としたべたべたしとあられもないうっとうしさと、何かをあばきたてることで自分の優位を確保しようとする幼稚で下品な欲望(「正しい」ことを主張する人は、大抵このような欲望に捕われているにすぎない)との、どちらをも遠ざけて、敬意による緊張-愛によって、あくまでも理知的に振る舞うというバランスを保つのはとてもむつかしい。
そもそも、感情を排して冷静に、ニュートラルに、と言う時に、そのような冷静な態度を実現させるものは、「感情を排したい」という強い感情-欲望であり、それが感情-欲望である以上、そこには必ず決してニュートラルではない偏った原因があるはずで、しかし、人はしばしば、ニュートラルでありたいと望むニュートラルではあり得ない欲望、中立的でありたいと願う偏った欲望、冷静でありたいと願う熱い欲望の存在(その作動)に気づかない。(似非科学をことさら批判しようとする人を動かす欲望は、似非科学を信仰したいと望む人の欲望と、同じくらいに偏っているのだという事実を、批判する人は知っていなければならないと思う。)
さらに、もし仮に、そのようなバランスがとれたからといって、一体何になるんだ、という根本的な疑問もある。うっとうしくてみっともなくてフェアじゃなくても、あられもなく愛のよろこびに溺れた方が、ずっといいじゃんか、というような。あるいは、愛などといううっとうしいことさえも遠ざけて、ただぼんやり、まったりと、ぽかぽかと日にあたって、ひきこもって、あるいは節度ある限定されたゆるい社交の空間のなかだけで、平和に暮らせればその方がずっといいではないか、と。(ぼくは、ほとんど常に後者を望む。)
ただ、高度な作品そのものがもつ厳しさや強さや切迫性だけが(そこから垣間見られる「現実」の手触りだけが)、そこに緊張をはしらせ、感情の流れを押し返し、理性を要請してくる。(つまり、作品の「質」が問題とされない場所では、理性は作動しないだろう。)